第一話 ホットミルク〈9〉


    §


「橋爪さん、もう大丈夫だよね」


 美久は頭上を仰ぎ、囁くように言った。

 夜の闇に佇むマンションのぜんぼうは窺い知れない。しかしその三階、道路に近い右端の部屋に灯された明かりは、どこよりも柔らかく暖かかった。


「良かったね、これで橋爪さん前に進めるね」

「さあな。橋爪がこれからどうするかなんて俺の知った事じゃない」


 投げやりに言う悠貴に美久は笑みを深めた。

 生意気で強気な高校生。

 その背は美久より頭半分ほど高く、均整の取れた顔立ちは溜息が出るほど奇麗だ。

 美久と目が合うと悠貴は目をすがめて言った。


「何見てるんだよ」

「ううん、すごいなって思って」


 勝手に電源の入る電化製品。あやしてないのに泣き止む赤ちゃん。

 美久にはただの怪現象にしか思えなかった。それどころか本当に幽霊がいるのかもと信じかけた。

 それを、この高校生はわずかな手がかりから見事に正体を暴いてしまった。

 現実とも夢ともつかない奇妙な出来事。不可解で謎に満ちた事件。その現象が鮮やかに解き明かされる瞬間の驚きと衝撃に美久の胸はまだドキドキしていた。

 これが真紘さんの言っていた、喫茶店のもう一つの顔。

 もう一つの仕事なんだ。


「あんな風に謎を解いちゃうなんて、悠貴君本当にすごかった。それにすごく物知りなんだね! 電波とか洗剤の成分とかどうしてあんなこと知ってるの?」

「あ? 天才だからに決まってるだろ」


 そんな事もわからないのかバカめ、と言わんばかりに悠貴が目を細めた。

 少しは照れたり、はにかんだりできないのだろうか。

 誉め損をしたようで美久が頬を膨らませると、悠貴がぽつりと言った。


「まあ、お前もなかなかの働きだった」

「え?」

「橋爪の家に来てすぐに違和感があると言っただろ。違和感を覚えたという事は、無意識に状況を分析し、そぐわないものを感じ取ったという事だ。理論ではなく肌感覚で状況をとらえられるなんて、ある意味才能だ」


 うそ……、誉められた。


 就職活動で全敗中の美久にとって、その言葉は天にも昇るほど嬉しいものだった。それもこの生意気な高校生、悠貴から誉められるなんて──


「いや、さすがゴミ女だな。ゴミの気持ちを理解して室内の雰囲気との違和感を指摘するなんてかみわざ、俺には死んでもできない」


 誉め言葉が一瞬で暴言にすり替わる。美久は目を剥いた。


「ちょっ!? 今またゴミ女って言った!? ゴミを漁らせたの君じゃない!」

「誰も鮭のじようを狙うヒグマのようにゴミを漁れとは言ってない」

「今度はヒグマ扱い!?」

「ああ、悪い。お前と同列じゃあヒグマが気の毒だ」


 な、なああああ──っ!!

 あまりの暴言に言葉もない。

 怒りに震える美久に、悠貴は今日一番の会心の微笑を浮かべた。


「それでは僕はここで。もう二度とお会いする事もないでしょうが」

「それはこっちのセリフだよ! さっさと行きなさいバカー!」


 美久は遠ざかる背中にせいを浴びせたが、少年は誰の事だと言わんばかりに涼しい顔で笑っていた。



【次回更新は、2019年7月26日(金)予定!】

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