第一話 ホットミルク〈2〉

「申し遅れました。はしづめと申します。都内に勤めていまして、今は……」


 アイスコーヒーを出しに行くと、ちょうど男が話しているところだった。三十代半ばかと思っていたが、実際の年齢は三十一歳と美久の予想より少しだけ若かった。疲れた表情が年を重ねて見せたのかもしれない。

 で、……こっちが探偵?

 美久は高校生の顔を盗み見た。黙っていれば品が良くて聡明そうに見える。名前は悠貴だったか。


「魔法使いはエメラルドの中にいる、ブリキのカカシと一緒に」


 ふと橋爪が言った。その視線は窓辺の置物に向けられていた。


「通りからこの店に気づいた時は心臓が止まるかと思いました」


 そこにはブリキのきこり──ではなく、ブリキのよろいを着たカカシの置物があった。

ずんどうなべのような胴体に、手抜き感に溢れたかぶと。腕と頭はわらでできていて、カカシらしく両手を広げて片足立ちしている。しかしブリキの胸元にはハートマークの中にCourageの文字がある。

 なんと言うか、全体的におしい。


「魔法使いとは『オズの魔法使い』に出てくるオズ大王の事ですよね。カカシに頭脳を、ライオンには勇気を……どんな願いでも叶えてくれる偉大な魔法使いの事だ」


 橋爪は悠貴に視線を戻した。


「そんな魔法使いのような探偵がいる。彼の手にかかれば、どんな謎もたちどころに解け、どんな探し物でも必ず見つけてくれる。警察でさえ協力を求めにくる、凄腕の探偵だと聞きました」


 悠貴は肩をすくめた。


「そんな噂が流れているんですか」

「ほとんど都市伝説ですよ。私の耳に入るくらいです、かなり有名だと思います。……切実に探している人がいるからこそ、語り継がれるんでしょう」


 美久は話の続きが気になったが、コーヒーを出し終えてしまったのでカウンターに戻った。後片付けをするふりをしながら見守っていると、悠貴が言った。


「それでは橋爪さんのご依頼内容は探し物という事でしょうか」

「そうです! もうこちらしか頼る所がないんです! 実は──」

「待ってください、お話を伺うわけにはいきません」


 悠貴がさえぎると、橋爪の顔にはっきりと失望の色が浮かんだ。その表情を見てか、悠貴は口調を和らげて続けた。


「何もお断りするというのではありません。お話を伺う前にこちらの条件を聞いていただきたいんです。お気づきかと思いますが、調査の性質上どんなご依頼であろうと貴方のプライバシーに踏み込みます。貴方の私生活を丸裸にするし、不愉快な気持ちにもさせるでしょう。それでも構わないと言えますか」


 橋爪が決然とした顔つきで頷くと、悠貴はすっと居住まいを正した。


「わかりました。では、お話いただけますか」


 橋爪はジャケットの内ポケットから写真を取り出すと、テーブルに置いた。

 美久の位置からはよく見えなかったが、被写体は三人のようだ。一人は男性で、おそらく橋爪だ。その隣に寄り添うように女性がおり、彼女の腕には生まれたばかりの赤ん坊が抱かれている。


「妻のゆいと、娘のです。捜してほしいのは……妻です」

「家を出られたという事ですか?」


 いえ、と歯切れ悪く呟くと、橋爪は思いつめた眼差しを悠貴に向けた。


「妻の……、妻の霊が消えたんです。お願いです、妻の霊を捜してください!」

「ええ!? どういうことですかそれ!」


 美久は叫び、はっとして口を押さえた。

 悠貴が眼鏡のフレームを指で押し上げ、鋭い眼光を美久に向けた。


「本気で営業妨害をしたいようだな」

「だ、だって幽霊なんて! そんなのいるはずないよ……!」

「いいから黙ってろ」

「いいんです、彼女の言う通りです。……私もずっと信じられませんでした」


 橋爪は目を伏せるととつとつと話し始めた。


「結……妻とは一昨年おととしに結婚しました。大学からの付き合いで、知り合ってから十年になります。結婚生活は順調で去年の十月には娘の奈緒が生まれました。……結が事故に遭ったのは、今年の一月下旬です。ほぼ、即死でした」


 橋爪は顔をゆがめ、寂しげに微笑んだ。


「家事や育児を任せきりにしていたつけですね……。いろんな事を思い知らされました。タオルや洗剤、どこに何がしまってあるのかさえわかりませんでした。奈緒も夜泣きをする子じゃなかったんですが、妻が亡くなってから夜泣きが酷くなり、最初の一週間は地獄のようでした。……そんな時です」


 橋爪は言葉を切ると、声を低くして続けた。


「妻が亡くなって十日ほど過ぎた頃でした。夜中に急にテレビがついたんです。故障かと思いました。でもテレビを消そうとしたら、今度はいきなりミニコンポの電源が入って音楽が流れ出したんです」


 美久はごくりと息を呑んだ。消えていたテレビがつき、離れた所のオーディオから突然音楽が流れ出す。幽霊が現れる時に起こるというラップ現象にそっくりだ。


「それから毎晩のように勝手に電化製品の電源が入りました。触るどころか近づいてもいないのに、何の前触れもなく……。そして、決定的な事が起こりました」

「決定的なこと……?」


 美久が尋ねると、橋爪は頷いた。


「溜まっていた仕事が片付かなくて、家に仕事を持ち帰った日の事です。その頃は奈緒の夜泣きが酷くて、寝かしつけてもすぐにぐずり出すような状態でした。だから仕事ははかどらないだろうと覚悟していたんです。ですが、いざ仕事にかかると突然奈緒が泣き止んだんです」


 美久は驚いて橋爪を見た。しかし橋爪はそれ以上言わなかった。


「ええと……、あの、それだけですか? 失礼ですけど偶然なんじゃあ」

「いいえ。夜泣きには大きく二つの理由が考えられるんです。オムツを替えて欲しいとか具合が悪いとか、そういった体に出る事が原因の場合と、気持ちが原因の場合です。目に見える事が原因ならおむつを替えたりミルクをあげたりすれば泣き止みます。ですが原因が見当たらず、抱き上げたりして泣き止む場合は気持ちが問題の時です。……奈緒は完全に後者でした」


 橋爪は続けた。


「病気かもしれないと思って病院も回りました。幸い健康状態は良好で、医者からは環境の変化についていけないせいだろうと言われました。実際、抱き上げてあやせば泣き止むんです。……あの子は、母親がいない事をわかってるんです。だから……」

「人の温もりを感じるまでは絶対に泣き止まない、と」


 悠貴が言葉を継ぐと橋爪は強く頷いた。


「そうなんです! 一度だけなら偶然でしょう、でも違うんです、奈緒はどんなに泣いていても私が仕事を始めると必ず泣き止むんです、それどころか笑う時だって……。抱き上げなければ絶対に泣き止まなかったのに、おかしいでしょう!? こんな事あるはずない、こんな事、起こるはずがないんだ……!」


 橋爪は顔を歪め、のどから声を絞り出すようにして言った。


「妻が、結がそこにいるみたいなんです……。仕事のじやにならないように奈緒をてくれているみたいで」


 美久はすっかり話に引き込まれていた。


 夜中にひんぱつする家電の誤作動。あやしてもいないのに泣き止む赤ちゃん。この話、本当かもしれない。幽霊って私が知らないだけで本当にいるのかも──!


「では奥様の霊が『しつそうした』というのは、どういったけいでしょうか」


 悠貴が尋ねると、橋爪は険しい表情でかぶりを振った。


「わかりません。四月になって突然消えてしまったんです。妻の気配が家の中から消えました。それと同じ時期に奈緒の夜泣きがまた始まって。……こんな事、自分でもまともじゃないと思います。でも妻の霊が確かにいたんです……!」


 橋爪は心の底から叫ぶように言いつのった。


「お願いです、こんな話誰にも相談できません! 私にはもうここしか頼る場所がないんです、お願いですから助けてください! どうか妻の霊を捜してください……!」


 切実な叫びに美久は胸を打たれ、同時に悲しくなった。

 幽霊が失踪した。

 改めて言葉にしてみると、とんでもない状態だ。生きている人なら捜し出せるかもしれない。でも相手は幽霊で、しかも失踪中。こんなのどんな凄腕の探偵だろうと解決できるはずがない。探偵だけじゃない、そんなこと誰にもできない──


「わかりました。お引き受けしましょう」


 だが、悠貴が驚くほど簡単にかいだくした。美久はぎょっとして悠貴を見た。


「ちょっと君、何言ってるの! 相手は幽霊なんだよ、そんなの不可能だよ!」

「外野は黙れ」


 悠貴は視線で美久を黙らせると、爽やかな笑顔を橋爪に向けた。


「では橋爪さん、最後の確認をさせてください。当方では経費以外の金銭は頂きませんが、対価を頂いています。この対価が何かはまだ言えません。ただし、金品よりもずっと価値があり、貴方にとって命と等しく重たいものとだけ言っておきましょう。貴方にそれを支払う覚悟がありますか?」


 意味深な言葉に橋爪はひるんだ。だがいつしゆんだ。橋爪は迷いのないひとみで頷いた。

 悠貴の端正な顔に薄くようえんな笑みが広がる。


「承知しました。では、これにて正式な依頼とさせていただきます」



【次回更新は、2019年7月1日(月)予定!】

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