プロローグ〈2〉


    §


 チリリン、と涼やかなベルの音がした。

 どこかで重たい音を響かせて扉が閉まり、ぬるい風がほおを撫でる。美久は目を開け、太いはりのある天井をぼんやりとながめた。

 え……?

 はっとして体を起こして、初めてソファで休んでいたと知った。体にはタオルケットが掛けられている。

 室内は薄暗かった。人の気配はなく、窓だけが真昼の日差しに白く輝いて、柔らかな光を室内に投げかけている。

 美久はぼうぜんと室内を見回した。

 整然と並んだあめいろに輝くテーブルに、アンティークの。美しい一枚板のカウンター。その並びには古めかしい柱時計がある。壁にはせんさいな彫刻の施された飾り棚があり、ガラス戸の向こうで食器やカトラリーが出番を待つように息を潜めている。そして、コーヒーの香り。


「喫茶店……?」


 美久は口の中でつぶやくように言った。

 一見お洒落しやれなカフェのようだが、よく見ると古ぼけた置物や怪しげなお面が飾られている。薄緑色のレジもねんが入っていてレトロな印象だ。

 そのレジの奥の壁に奇妙な張り紙がある事に気づいて、美久は顔をしかめた。


貴方あなたの不思議、解きます〉


 なぞもんごんの上、『ます』の部分が今時珍しい四角に斜線だ。

 何の広告だろうと張り紙を眺めていると、背後から涼やかなベルの音が響いた。


「あっ、ごめん、起こした?」


 振り返ると、入口から背の高い男が入って来るところだった。

 重厚な木の扉にはガラスが嵌まっており、白く文字が抜いてある。

珈琲コーヒー エメラルド〉。

 反転した文字は読み難いが、どうにかそう読めた。


「気分はどうかな。少しは良くなった?」


 男はカウンターに向かうと、水差しからグラスにたっぷりと水を注いで戻ってきた。どうぞ、と差し出されたグラスを受け取りながら美久は男の顔を見た。

 知らない人だった。としは二十代半ば。店員なのだろう、黒いシャツとズボンの上にこげ茶色のウエストエプロンをしている。穏やかな目をした優しそうな人で、身長は百八十以上ありそうだが、不思議とあつ感はない。

 でも、なんで私こんなところに……?

 店員にも店にも見覚えがない。今まで何をしてたんだっけ、と美久が首をひねっていると、店員が心配そうに言った。


「まだぼんやりしてる? 覚えてるかな、君、店の前で倒れてたんだけど」


 言われたしゆんかん、ぞわりと全身が鳥肌立ち、美久は思わず身震いした。


「どうかした?」

「あ、いえっ! 倒れたのが路上じゃない気がして……! すごくきれいな男の子に助けてもらうんですけど、そのあと笑顔でゴミ捨て場に放り投げられたような」

「ははは、面白い夢だね」

「そ、そうですね……」


 美久も笑った。でもそうだ、あれが現実なら今頃ゴミの中で目を覚ましたはずだ。あんなひどい事をする人がこの世にいるはずがない。だいたい偶然あんなにかっこいい男の子に出くわすなんて夢としか思えなかった。


「あ、寝癖がついてる」


 店員が言い、美久の髪をいた。不意に指の長い奇麗な手に触れられ、美久は飛び上がりそうになった。


「ありがとうございます……!」


 いえいえ、と微笑む店員の手にリンゴの皮が握られている気がしたが、きっと気のせいだ。美久は動揺を隠そうとグラスの水をあおった。


「それにしてもすごい荷物だね。どこかに行く途中だった?」

「あっ、はい、これから」


 そう言いかけ、美久は息を呑んだ。


「ああ──!!」


 思わず叫んで腕時計を覗き込むが、時計の針はとっくに十時を回っている。

 やってしまった、どうしよう……!


「どうしたの?」


 店員の声に美久は青ざめて言った。


「今日これから調ちようで企業説明会が……!」

「調布って、ここ吉祥寺だよ? うちの店から駅まで少し遠いし」

「バスで行こうと思ったんです、でも南口がバスと人ですごいことになってて、とりあえずバスの来た方に行ってみたんですけど……」

「ああ、降車専用のバスだね。乗客を降ろすのに強引に駅前に入ってくるんだ。危ないって前から問題になってるんだけど」


 乗り場は一本先の通りだよと教えてもらったところで後の祭りだ。

 美久は肩を落としてソファに沈み込んだ。


「バス乗り場を探してたら、たまたま交差点で調布駅行きのバスを見つけたんです。だから慌てて追いかけたんですけど……」

「それでこんな駅から離れた所に。でもぼうだなあ、スーツでバス追いかけるなんて」


 冷静に考えればまったくその通りだが、その時はいけると思ったのだから仕方ない。

 美久は腕時計に目を戻した。今から調布に向かっても着くのは説明会が終わる頃だ。とても間に合いそうにない。

 明け方までエントリーシートを書いていたのがいけなかった。は寝坊して朝食も取らず家を飛び出す羽目になった。いや、今日に限った事ではない。この数日は企業に提出する書類が重なって、ろくに寝ていなかった。

 自己管理のなってない自分が嫌になる。もう四月だ、就活も折り返し地点を過ぎている。それなのにこんなミスして。こんなんじゃだめだ、これじゃ就職なんて……。


「コーヒー好き?」


 出し抜けに店員が言った。美久が顔を上げると、店員はにこりと微笑んだ。


「これから行っても間に合わないだろうから、今日はお休みにしたらどうかな。顔色も良くないし、もう少しここでゆっくりしていきなよ」


 塞ぎ込んでいる事に気づいているはずなのに、何もかないのが優しい。店員の優しさに美久は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


「うちの店に来たのも何かの縁だし、ごそうするよ。リクエストあるかな」

「そんな、迷惑かけたしお気持ちだけで」


 充分です、と続いた言葉に、きゅるきゅると腹の鳴る音が重なった。店内が静かな分、すがすがしいほど音はよく通る。

 うわああっ、恨むよ私のお腹……!

 美久が耳まで真っ赤になって腹部を押さえると、店員はおうように笑った。


「じゃあケーキと何か体に優しい飲み物にしようか」

「すみません……」

えんりよしないで。水分ちゃんと取るんだよ、水はカウンターにあるから」


 店員は銀の水差しを指差してカウンターをくぐった。その背中が奥の部屋に消えかけた時、美久ははっとして立ち上がった。


「あの! 私、小野寺って言います。倒れていたところを助けてくださってありがとうございました!」


 就職活動仕込みの深いおをすると、店員は面食らったように目をしばたいた。それからその顔に優しい笑みが広がる。


「どういたしまして。おれかみくらひろです。どうぞよろしく」



 真紘でいいよ、と気さくに応じた店員の心遣いはとてもこまやかだった。

 振る舞われたレモン水は氷を入れず、ぬるめに作られていた。ほど良い酸味にハチミツの優しい味がして、わずかに塩気が残る。脱水症状気味の美久を気遣ってだろう。一緒に出されたレアチーズケーキも冷やしすぎてなく、とろけるようにしかったが、食後のコーヒーが絶品だった。普段はミルクと砂糖を入れる美久だが、真紘のれるコーヒーは苦味も酸味もとがりすぎてなく、そのままで充分に美味しかった。

 何より美久がうれしかったのは真紘が必要以上に体調を気遣わず、自然に接してくれる事だった。まだ若いのにこんなに気配りができてそつがないなんて、きっと店でも頼りにされているに違いない。


「えっ!? 真紘さん店長だったんですか!」


 だからその肩書きを聞いた時、美久は文字通り飛び上がって驚いた。

 ちゆうぼうで後片付けを手伝っていた美久は、皿をく手を止めて真紘を見上げた。

 食器を洗う真紘の手つきは慣れていてぎわがいい。こういう仕事に長く就いているからだろうが、歳はどう上に見ても三十を越えるかどうかだ。起業に燃えて店を興すタイプには見えないし、この若さでどうやってこんな立派な店を持てたのだろう。

 美久の視線から疑問を感じとったように真紘は泡のついたスポンジを片手に笑った。


「雇われ店長だよ。オーナーは別にいて、俺は運営を任されてるんだ」

「そんなことあるんですか?」

「個人商店だからイメージしにくいだけじゃないかな。形態としてはコンビニやチェーン店の店長と同じだよ」

「あ、それならわかります! 小さなお店でもそういうことあるんですね」

 世の中にはもっと不思議な職業形態があるよ、と微笑んで、真紘は続けた。

「それで、小野寺さんの就職活動は順調?」


 その一言に美久は急速に現実に引き戻されるのを感じた。

 今までが楽しかった分、慣れたはずの現実がいつもより苦く感じられた。


「そうですね……、また氷河期とか言われてるし、なかなか厳しいです。私、まだいっこも内定取れてなくて」


 真紘が眉をひそめるのを見て、美久は慌てて付け足した。


「厳しいって言っても条件は皆同じですよ、私だけが辛いわけじゃないし!」

「だけど元気な人は行き倒れないよ。ずいぶん疲れているよね?」


 それは……、と美久は言いよどみ、笑顔に切り替えて言った。


「私、四年生なんです。さすがに焦るっていうか、四年も大学に行かせてもらって就職できなかったらどうしようって。だから大変とか言ってる場合じゃないんです。頑張ってるのはみんなも一緒で、結果を出せないのは私が悪いっていうか、だから大変とか辛いとかそんなこと全然!」

「うーん、危ういなあ。そういう考え方」


 穏やかに発せられた言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。


「皆も大変だから自分も大変で当たり前とか、そういう事じゃないと思うよ。自分の感じる事を他の人と並べて考える事ないんじゃないかな。辛い時は辛いって言っていい。だって小野寺さんはそう感じているんだろう? 自分が頑張ってる時くらい、自分でめてあげなくちゃ。ご両親とか周りの状況とか関係なくね」


 だから弱音の一つくらい良いんじゃないかな。そう気負わずに笑う真紘の姿に、美久は目からウロコが落ちるようだった。

 ごく当たり前の事を当たり前に言われただけ。

 たったそれだけなのに、張りつめていた何かが緩んだ。


「──就活は大変だけど、本当に嫌とかじゃないんです。なんていうか、不安になってくるっていうか……」


 他人という気安さもあったのかもしれない。気づくと言葉がくちびるからこぼれていた。

 就職できるかどうかもちろん不安だ。でもそういう不安じゃない。就職活動をしていると、まったく別の不安が染み出してくる。


「エントリーシートって就職したい会社とかに出す書類があるんですけど、そこに決まって出る質問があるんです。あなたの長所と短所は何ですかとか、やりたいことは何ですかって。思ってるとおり書いたらダメですよ。はん的な答え方っていうか、審査する人が雇いたくなるように書かないと。そこはわかってるんです、でも最近全然書けなくて……。言葉が見つからないんです」


 書類でも面接でも美久はしんだった。うそは吐けないし、体当たりでその企業に対する気持ちを伝えた。しかし、いくら熱意を込めようと企業からの返答は不採用通知だけだった。エントリーシートで切られるならまだいい。面接にまで進んで断られた時は自分を否定されたような痛みがある。厳しい就職事情も採用者が人格否定をしているわけでもないのもわかっている。それでも心は削られた。

へいしやに入社してやりたい事は何ですか』『将来の目標は』『夢は何』

 ──四十、五十と新しい企業を受け、その度、夢にあふれた問いが投げかけられた。そうして夢や人柄を問うのに、最後は理由もわからないままかみくずのように切られてしまう。


 それでも自分をさらけ出すしかない。あこがれや希望、長所や欠点。一番もろい部分をまるでタマネギの皮をくように自分からいでいくしか……。

 気づいた時、美久は自分の事がわからなくなっていた。

 何に憧れていたのか。何を望んで、何がやりたくて、どんな未来を描いていたのか。ごく当たり前にわかっていた事がわからない。いや、最初からそんなものは存在せず、『持っている』と幻想を抱いていただけなのかもしれない。


「私、あんまり考えたことなくて。何となく高校出て、何となく大学行って。周りが必死で就活するから、流されるみたいにリクルートスーツ着て。……だからかな、審査で落ちるたびにお前はからっぽだよ、何もないんだって突きつけられてるみたいで」


 実際のところそうなのだ。本当の夢を持っている人はこんな事で揺るがない。自分というものを確立している人はこんなところで止まらない。それができない私は何なのか、どうしてしっかり立っていられないのか。

 くだらない夢を語っているから切られる。見せかけの熱意だから必要とされない。つまらない人間だから要らない。……そういう事じゃないのか。

 真紘が黙り込んでいる事に気づいて、美久ははっとした。


「すいません、変なこと言って! 何言ってんだって感じですよね、自分でもよくわかってなくて、こんなこと言われても困りますよね!」


 苦笑いしながら言葉を重ねた時、店の方からドアベルの涼やかな音が響いた。


「あ、お客さんみたいですね!」

「ああ、そうだね」


 真紘は手についた泡を洗い流すと、手を拭こうとタオル掛けに手を伸ばした。しかし肝心のタオルがない。用意するのを忘れていたようだ。

 これ以上お客さんを待たせるのはよくない。美久はそう判断して皿を台に置いた。


「私、代わりに行ってきますね」

「だけど」

「大丈夫です、バイトは飲食一筋だったんで接客は任せてください!」


 真紘が何か言いかけたが、美久は厨房を飛び出していた。


「いらっしゃいませ!」


 ホールに向かって元気良く声をかけると、入口に立つ客と目が合った。

 背広姿の男で、外から差す日差しが逆光になって酷く線が細く見えた。

 美久はカウンターをくぐってレジ横のメニューを取った。それから客を席に案内しようとし、はたと気づいた。

 しまった、このお店ってまだ開店してないんじゃあ……!

 ずっと店内にいたので営業中だと思い込んでいたが、店の扉には〈閉店〉の札が下がっていた。美久は自分のそそっかしさが嫌になった。しかしこのまま客を放り出して戻るわけにもいかないだろう。


「すみません、少しお待ちいただけますか? ちょっと店長に確認してきます」


 美久が頭を下げてきびすを返した時だった。


「あの!」


 突然強い調子で呼び止められた。驚いて振り返ると、男は不安そうに美久を見ていた。青白い顔はさらに色をなくし、強張って見える。


「はい、何でしょうか……?」


 しかし男は答えなかった。

 しゆんじゆんするように唇を震わせ、閉じる。やがて男は意を決したように顔を上げた。


「こちらに、探偵がいると伺いました」

「たっ、探偵ですか?」

「はい。どんな物でも必ず見つけてくれる、どんな不可解な出来事も話を聞くだけでたちどころに解決してしまうすごうでの探偵がいると」


 テレビドラマか何かだろうか。疑問に思うが、男の目は真剣だ。


「すみません、私にはちょっと……」


 美久は答え、ふとレジの奥の壁に目を止めた。


「……もしかしてあれのことですか?」



〈貴方の不思議、解きます〉



 意味不明な、謎の張り紙だ。

 何かの冗談にしか思えないけど……やっぱりただの冗談かも。

 自分で言っておきながら美久は早くも後悔していた。大人おとなしく真紘さんに確認しよう、そう思った時だった。


「──やっぱりそうだ」


 低く言うのが聞こえたかと思うと、いきなり男が美久の肩につかみかかった。


「本当だったんですね!! こちらで本当に捜してくれるんですね!? もうここしか頼るところがないんです、私ではもうどうにも!」


 唐突すぎる展開に美久はまったく反応できなかった。激しく揺さぶられ、強く掴まれた肩に鈍い痛みが走る。


「痛……っ、あの、落ち着いて」

「そいつは役に立ちませんよ」


 その時、横から伸びてきた手が男の手首を取った。

 美久は隣を見上げ、驚きに目を見張った。

 背筋の伸びた姿勢。さらりとした黒髪に、眼鏡の奥に覗く知的なまなし。


 ──知ってる。


 とくん、と胸が高鳴った。涼やかな声も、りんとしたその眼差しも、全部知ってる。

 まるではくちゆうから抜け出してきたように、端正な顔立ちの少年がそこにいた。

 少年は男を見据え、凛とした声で告げた。


「こいつは見たままのただの頭の悪い行き倒れバカ女です。お話は僕が伺いましょう」


 暴言まで白昼夢そのままに。

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