オーダーは探偵に

近江泉美/メディアワークス文庫

『オーダーは探偵に 謎解き薫る喫茶店』――シリーズ第1巻試し読み

プロローグ〈1〉


 きちじようの町はうららかな日差しに包まれていた。

 青く輝く空にいたような雲が広がっている。柔らかな風に吹かれたケヤキの街路樹がさらさらと心地よい音を奏で、れ日を躍らせた。その中を真新しい制服に身を包んだ学生たちが晴れやかな顔で通り過ぎていく。これから巡る新しい季節に期待に胸をふくらませ、道行く誰もが軽やかな足取りだ。


「うわああ、遅刻するー!」


 そんな中、必死のぎようそうで走る女子大生がいた。

 きっちりと結わえた黒髪に、黒のスーツ。書類で膨れたバッグを肩に掛け、でらは吉祥寺通りを駅とは逆方向へひたはしった。

 美久の前方には数分前に乗る予定だったバスがある。


「待ってってば……っ」


 走行するバスを追う事およそ一キロ。距離は依然として縮まらない。パンプスでの強行軍に息はとっくに切れ、足も悲鳴を上げていた。走り続けるのも限界だった。

 一度歩調を緩めると、もう走れなかった。美久はよろめきながら足を止め、ひざに手をついた。呼吸を整えようとするがくいかない。胃がせり上がってくるような嫌な感覚がして、目眩めまいまでしてきた。

 まずい、貧血かも……どこかで休まないと……。

 目で辺りを探すとすぐそばに脇道があった。背の高い木々に挟まれた小道はいかにも涼しげで、美久は考えるより早く足をそちらに向けていた。

 しかし行動するには遅すぎた。

 小道に入って数歩も行かないところで、がくん、と膝が抜けた。あ、と思った時にはアスファルトが視界一杯に迫っていた。

 ああ、頭ぶつけたら痛いな──ごとのようにそう思った時、唐突に落下が止まった。


だいじようですか」


 ごく近いところから涼やかな声がした。

 通行人が抱きとめてくれたのか、腹のあたりに人の腕を感じた。返事をする間もなくあおけにされ、強い日差しが美久の目に飛び込んでくる。

 目を細めると、まばゆい光の中にぼんやりと人のりんかくが見えた。

 少しくせのある柔らかな黒髪、そうめいで涼しげな目元──


「しっかりしてください」


 光に彩られ、透き通るように美しい少年が美久の顔をのぞき込んでいた。

 高校生だろうか。眼鏡めがねをしていなければ天使か何かとまごうところだ。その眼鏡でさえ少年の美しさを隠す事ができず、知的な印象を強めるばかりだ。


「────」


 少年が何か言ったが聞き取れなかった。美久は目を閉じ、意識が薄れるに任せた。

 と、ふわりと体が浮く感覚があった。重力から解放され、まるで雲の上を滑るように移動していく。

 美久はもうろうとしながらまぶたを押し上げ、ぜんとした。

 吐息が触れるほど近くに端正な横顔があった。さらに背中や膝の裏に力強い腕を感じる。抱きかかえられているのだと理解するのに時間がかかった。それも、おとぎ話に出てくる王子様がお姫様にするように。

 ……これは、夢?

 自分とは違う硬い胸板。人ひとり抱えているというのに少年の腕は微動だにせず、足取りも淀みない。風に揺れる柔らかな黒髪。眼鏡の奥の長いまつ。神様がていねいに作りすぎたとしか思えないれいな顔。

 うそ。こんな、こんな夢みたいなことってあるのかな……。

 少年が美久を見下ろして優しく微笑ほほえんだ。そして、

 美久の体の支えていた力がふっとき消えた。

 落ちる感覚さえ心地良かった。

 体が柔らかな物の中に沈み込む。舞い上がる白いレース。歓声を上げるように飛び出す真っ赤なリボン。まぶしい青空。小鳥のさえずり。それから、もあっと鼻をつく悪臭。


「う……!? う、うう……」


 美しい夢が悪臭にらされ、意識が現実に引きずり戻される。

 美久はうなされるようにして目を開いた。


『資源ですか? ごみですか?』


 そこには、そんな親切な確認の言葉がプリントされた武蔵むさし指定ゴミ袋があった。美久の体は不燃ゴミでぱんぱんに膨れたゴミ袋の間にまり込み、落下のしようげきで舞い上がったレース──改め、菓子パンの包装紙が落ちてくる。

 美久の額についたリボンのように長いリンゴの皮が、ぷらん、と所在なげに揺れた。

 見粉う事なきゴミ捨て場。いや、ゴミの中だった。


「しっかりお休みください。何なら永遠に」


 視界を埋め尽くすゴミの向こうで少年が輝くばかりに微笑んだ。

 わけがわからなかった。

 なんで、ゴミ。なんでゴミ捨て場。なんで不燃ゴミ日にリンゴの皮────!?


「リ、ゴは、燃える……ゴミの……日に」


 美久は言いかけ、力尽きた。

 薄れゆく意識の中、少年だけが変わらず美しい笑みをたたえていた。

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