九話

 翌日、六月第一週の水曜日、市松は上機嫌で家をいつもの時刻に出た。

 上機嫌の理由は三つある。まず天気が梅雨のこの時期には珍しく晴れている事、次に昨日は見えなかった天気予報の主にお姉さんを見ることが出来た事、最後にこれが一番の理由であるが昨日市松を混乱に陥れた呪いとおさらば出来るという事である。


 朝起きて鏡を見ながら身支度をしている時に、姫森の事を考えたからか猫耳が勢いよく飛び出た事があったが、市松は焦ることもなく、むしろ鏡の中の自分に見入った。

 昨日は猫耳なんぞ少しも似合わないと思っていたが、意外とそうでもなくアイドルのような可愛い少年系にも見えるではないか。

 人間、危機を脱して余裕が出ると、調子に乗るものなのである。


 昨日のうちに市松は姫森を朝の屋上に呼び出す手筈を整えていた。


 呪いの事を含め、姫森にはまだ何も話していない。が、まあ仮にも付き合っている男女なのだし、特に問題はないだろうと市松は軽く考えていた。


 その当日、三分前に屋上に市松がたどり着いた時にはすでに姫森初音はいた。


「義弘君」


 不思議そうに、困ったように姫森は笑いを浮かべている。姫森のサラリとした肩まで切りそろえた髪とセーラー服のスカートが風でふわりと揺れた。

 市松は深呼吸を一つすると、姫森の瞳をじっと見つめ足早に距離を詰めた。


「姫森」


 流石に市松の気配に奇妙なものを感じたのか、姫森の顔に不安がよぎる。だが、市松は姫森が身を引く前に彼女の腕をつかんだ。


「あ、あの義弘君?」


 市松は答えなかった。何といえばよいのか、よく分からなかったのだ。代わりに腕を引き寄せ、その唇を塞いだ。

 甘い、花のような香りがした。

そして鮮やかに風を切る音と、炎のごとく焼けつく痛みがその後を追った。――痛み?


「何をするのよ!」


 それは間違いなく怒りの声音だった。

普段の甘い声音は何処へ行ったのか、鋭い刃のような声音に内面ヘタレの市松は凍り付く。

得も言われぬ恐怖にかられた市松は、咄嗟に弁解ともいえない言い訳を恐る恐るはじめる。


「な、何ってその、一応俺たち付き合っているわけですし? そろそろ」

「私、こういうことしても良いなんて一言も言っていないけど」


 日ごろの天使のように愛らしかった姫森初音の姿はなく、代わりに驚くほどに冷たく蔑んだ目の姫森が、烈火のごとく怒りをまとってそこにいた。

 一体何なのだろう、市松は混乱した頭の中でそう思った。

何故姫森が怒るのか、市松にはまるで分らなかった。だが、別人のように恐ろしい姫森と、更にその背後に何故か黒崎麻衣の姿が透けて見える気がして、何も言えなかった。

姫森もまた怒り故に言葉が出てこないのか、何も言わなかった。しばし両者の間に刺すかのように冷たい沈黙が起きた。


「……ましょう」


 口を開いたのは姫森の方だった。


「えっと」


 聞き取れずに問い返すと、姫森は意志の強い瞳で市松を淡々と見つめた。


「別れましょう、って言っているの」

「別れるって俺たちまだ付き合ったばかりだろ!? それに言い出したのは姫森で」

「それとこれは話が別」

「いや、未練とか」

「私にはないから。こういう人だったら願い下げ」


 ぴしゃりという姫森を、市松は信じられない面持ちで彼女の顔を穴が開くほどに見た。

女はかくも変わるものなのか、黒崎しかり目の前の姫森しかり――混乱に混乱を重ねる市松の前をしり目に姫森はさっと踵を返した。


「それじゃあ、そういう事だから、よろしく」

「ちょっ、姫森!」


 呼び止めようとして、市松は給水塔に己の姿がぼんやり映っていることに気が付いた。学ランを着た男の頭には、黒い突起が二つついている。

 目の前が真っ暗になる気がした。

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