八話
「私が貴方にかけたのは『魔法』じゃなくて『呪い』、『魔法』は術者の力の内の物だけれども『呪い』は違う。私は『呪い』をかけることができても、解くことなんてできないわ」
残念だったわね、と少しも残念ぶらずに黒崎は言った。氷のようなその言葉は死刑宣告のように市松の胸に突き刺さった。
また沈黙が起きた。とても痛々しい、苦しい沈黙だった。
市松は怒りを黒崎にぶつけることはなかった。ただ元のパイプ椅子に力なく、崩れ落ちるようにして腰を戻した。
「なんだよ、それ」
ぎしり、とパイプ椅子がきしんだ。
「なんなんだよ、それ――普通ありえないだろ」
市松のそれは抗議というよりも、独り言の様だった。
「猫耳とか、しかも本当に生えていて一年後に猫になるとか、ありえない。絶対ありえないだろ――俺、イケメンなのに」
紅茶を飲んでいた黒崎の眉が怪訝そうにしかめられる。が、市松の言葉は留まることを知らない。
「俺、顔イケていて身長も有って、美人の彼女がいて、勉強も運動も人以上にできてモテるし、クラスメイトとも仲がいいし、帰宅部だけど人気者だし、なのに、それなのに猫になるとか、なんなんだよ。理不尽だろ、迷惑だろ、俺イケメンなのに、世界の損害だ」
「……貴方、やっぱり良い性格しているのね」
表情と発言がいまいち一致しない市松に対し、黒崎は心底呆れているのか、紅茶を机に戻し大きくため息をついた。
「まあ、貴方のナルシスト事情はどうでもいいけど、私、一言も『呪い』が解く方法がないとはいっていないわよ」
「……は?」
「私が『呪い』を解けないだけで、解く方法は一つある。私がそんな非人道的なことをするわけないでしょ」
また市松の思考は停止した。茫然と馬鹿のような面をする市松に、黒崎は長いしなやかな指を突き付けた。
「古今東西、呪いを解く方法といえば、たった一つ決まっているわ――真実の愛」
すでに頭が真っ白になっているのにもかかわらず、市松は更に混乱した。ゆえに彼はオウムのように黒崎の言葉を繰り返した。
「真実の愛?」
「そう、おとぎ話とかでも良くあるでしょ。カエルになった王子、眠りから覚めない姫君、死んでしまった恋人――魔法や呪いは人間の欲が生み出したもの、人間の最大の欲は愛、だから上書きして打ち消すことが出来るものなのよ」
市松は、しばらく黒崎の顔を穴が開くのではないかというほど見て、信じられないというように言った。
「俺は元に戻れるのか」
「だから、さっきからそう言っているでしょ」
若干鬱陶しそうに黒崎は言うが、市松は食い下がる。
「要は俺の事が好きな奴からキスしてもらえれば、この猫耳を含めもろもろは消えるんだな」
「まあ、直球で言うとそうなるわね」
黒崎の言葉を聞き、これまで血の気が引いていた市松の顔がみるみるうちに血色が良くなっていった。
真実の愛、好きな人からのキス、市松には十二分にあてがある――姫森初音だ。
「なら、問題ない。この俺にかかればこんな呪い、さくっと明日にはどうにかなる」
「大した自信ね。ただ」
「あっ、でも、そうか。この耳を明日まで隠さないと――って耳?」
何かを言いかけた黒崎を遮りつつ、市松は手を頭にやり違和感を覚えた。
先ほどまであったフワフワの獣耳がない。いや、ないのが当然であるのだが、ずいぶん悩まされたので狐に化かされたような気分になった。まあ、有ったのは猫耳なのだが。
「ああ、耳はそんなに気にしなくていいわよ。貴方の感情に合わせて耳が出たり、場合によって尻尾が出たりはするけど、普通の人間には視えないものだから。写真やビデオにも映らないし、視えるのはそれなりの人間ぐらいよ」
「それなりの人間って」
「まあ具体的に言うと私みたいな人間ね」
市松は足から崩れ落ちたいような気分になった。自身を悩ませていた猫耳はこんなにも簡単なものであったのか。この世の終わりのように悩んだ自分が馬鹿らしくすら思えてきた。
「なんだよ、思ったより簡単じゃねえか」
「……そうかしら」
「まあ、見てろって。明日中にこんな面倒くさい呪いあっさり解いてやるから」
まだ呪いを解いてもいないのに、非常に得意げな市松の頭、消えていたはずの猫耳が元気に自己主張をしていた。
猫耳がぴょこぴょこと揺れる様子をじっと見て、黒崎麻衣は一言言った。
「そんなに簡単にはいかないと思うけれど、まあ、せいぜい頑張って頂戴」
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