七話

 多少の好奇の目にはさらされたものの、全力疾走が功を成したのか、市松は無事学校へ戻れた。時刻は午後五時を少々回っていた。

 清徳高校は体育館が大中小と三つ存在している。いつも大体育館ではバスケ部やバレー部が使用しているのだが、その時は走り込みにでも行っているのか人気がなかった。


 市松の足音だけが空っぽの校舎に木霊し、じめっとした雨の空気が彼の焦りや不安を増長させる。

 市松は階段を駆け上がり、大体育館の上の階を目指した。階段の電気はすでに消えていて、こちらも人気がなく、さびれた雰囲気と相まって薄気味悪い。が、市松がそんなことを気にしている余裕などなかった。


 黒崎麻衣が部室にいる保証はない。もし、黒崎に会えなければどうすればいいのか、考えるだけで胃が痛い。

 だが、幸いにも文芸部の部室は薄暗い廊下の中で、ぼんやりとした光を伴っていた。しかし、部屋の中は何の物音もせず、死んだように静かだった。


 市松は恐る恐るドアノブに手を伸ばした。冷たい金属は市松の手の中で実に軽く回った――開いている。市松はいつの間にか口内にたまっていたつばを飲み込むと、古ぼけたドアを一思いに開けた。


「あら、遅かったわね」


 そこは部屋だった。いや、ドアの先に何らかの空間があるのは当然なのだが、そこは部室というよりも私室と評するにふさわしい、奇妙な空間だった。

 まず部屋の灯りがよく学校で使われているような蛍光灯ではなく、古めかしいシャンデリアだった。

 さらに部屋にはどう運び込んだのか分からない三人掛けほどの革製のソファー、洒落たティーカップの置かれたガラスの机とそれを覆うように大量の本が置いてある。ただし、その本も本屋で見かけるような普通の本ではなく、革表紙の本だったり、明らかに日本語でも英語でもない言語でつづられていたりする奇妙なものだった。

 本の山の他にも人間の手のような置物や用途不明な黒い濁り水晶やらが机上や床を選ばずに転がっている。

 黒崎麻衣はその中にいた。荷物をよけられたソファーの真ん中で、彼女は百科事典のように分厚い和書を片手に、相変わらず淡々とした冷たい瞳で市松を見ていた。


「……ここって文芸部だよな」


 思わず漏れたのは自分のことではなく、部屋のことだった。それほどこの部屋は異常だった――まあ、黒崎の視線の冷たさに若干ひるんでしまったという要素がないというわけではないが。


「ええ、そうよ。部室兼私の家っていうところね。部員誰もいないし、入らせるつもりもないから少しいじったの」

「いじった?」

「ええ、私の部屋とつなげたのよ。ほらあの奥のドア、あれが私の家につながっているわ」


 そう言って黒崎が指さしたのは、部屋の奥にある白い木製のドアだった。

 いろいろ奇妙なものが有りすぎで気が付かなかったが、そのドアは最もおかしいといえる。

 何故ならば文芸部室の立地を考えると、、外へ突き抜けてしまう。

 この状況や今までの事情を含めて、市松は呟いた。


「……魔女、なのか」

「あら、思いのほか物分かりがいいのね」


 黒崎はこともなげにそれを肯定し、市松は言葉を失った。だが、黒崎は市松に休ませる暇を与えなかった。


「で? それが本題なのかしら?」


 全てを見通すような冷めた瞳が市松を見ていた。それは確かに冷たい色をしているのだが、意思の力強さや高潔さをあらわしている瞳でもあった。

 市松は自身の頭に乗せていた鞄を一息にどけた。頭の上の方で潰されていた何かが勢いよく立ち上がるような気配がする。

 黒崎はそれを見ても顔色を変えることはなく――市松は確信した。


「これ、お前の仕業だろ」


 市松の声は予想よりも落ち着いていた。

 異常事態に脳が一周回って落ち着いたのかもしれない。黒崎はそんな市松をじっと見ていたが、やがて応えた。


「ええ、そうよ。私の仕業、呪いをかけさせてもらったわ」

「呪い?」

「そう、猫になる呪い。結構大変だったのよ」


 そう言うと黒崎は本にしおりを挟んで閉じると、机の上のティーカップに手を伸ばした。


「ああ、なんなら座ればいいんじゃない? お茶を出すつもりはないけど、そこの椅子なら使ってもいいから。元々部室にあったパイプ椅子だけど」

「いやいやいや、ちょっと待てよ!」


 あっさりと言い流す黒崎に待ったをかけるものの、当の本人は怪訝そうに眉をしかめる。


「何が? 貴方立っているのが趣味なの?」

「いや、そこじゃねえ。そこも無きにしも非ずだけれども、そこよりも問題があるだろう!」

「……問題?」


 黒崎の顔はしかめられたままだった。本当に見当がつかないらしい。


「俺に呪いをかけたって話だ! 何で呪いをかけやがったというか、その前にまずこれをどうにかしろ!」


 市松の激情に同調したのか猫耳がピクピクとゆれる。黒崎はその様をじっと見つめ、紅茶をすすった。


「言葉を詰め込みすぎよ、何を聞いているのかよく分からないわ」

「全般的に聞いているんだ!」

「……全部分からないの?」

「お前が俺をこんな風にしたということ以外はさっぱり分からん!」


 市松が一息に言い切ると、黒崎は考え込むようにしてティーカップを机に戻した。


「そうね、まず私が呪いをかけた理由は流石に考えれば分かるでしょ?」


 心当たりは一つしかない。あまりにも現状とは釣り合いようのない心当たりではあるが。


「……まさかとは思うけど、俺が傘を拝借したこと、みたいな」


 まだ若干の後ろめたさがあるのか、市松の言葉は歯切れが悪い。

 対して黒崎はあっさりと実に歯切れよく返した。


「はい、正解。で、かけた呪いだけど」

「いやいやいや、待て。まずその時点でおかしいだろ。確かにそれは俺が悪いかもしれないけど、これで猫耳は釣り合わないだろ。理不尽だ!」

「あら、私の中では釣り合っているわ。十二分に」


 市松の抗議を一刀両断すると、黒崎は話をもどした。


「で、私がかけた呪いは『猫になる呪い』。最初は感情のブレで猫耳が出たり、症状が進めば尻尾が出たりして、最終的には猫になる呪いよ。まあ、時間的には――あと一年くらい?」

「……は?」


 頭が真っ白になる、とはこういう事をいうのだろうか。市松はどこか遠くなる感覚の中、うわごとのように確認する。


「猫耳が生える呪いじゃないのか」

「まあ、猫耳も生える呪いよね、厳密には」


 黒崎は興味がないのか、席を立つとティーカップに新たな湯と茶葉を入れた。ふわりと湯気が立ち、場違いな甘い香りがあたりに漂う。市松はその間、ずっと沈黙していた。

 だが、やがて状況を飲み込めたのだろう――次に彼が発したのは怒声だった。


「ふざけるな、何で俺が傘を借りたぐらいでこんな目に合うんだよ! そんな奴探せば俺の他にもたくさんいるし、無茶苦茶だ!」


 黒崎は何も答えなかった。ただ興味がないように紅茶をすすっていて、その態度に更にいらだったのか、市松は彼女につかみかからんばかりに近づいた。


「――今すぐ、俺を、元に戻せ!」


 しん、とした静かな空気が訪れた。

 動揺を隠せない市松の瞳と、底の見えない淡々とした黒崎の瞳が交差する。

 口を開いたのは黒崎だった。


「残念だけど、それは無理な相談ね」

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