四話

 それからの市松はやけに上の空だった。

 得体のしれない嫌な予感をこの男にしては珍しく感じていた。受けた気のしない授業を繰り返し、気が付けば一日の終わりの終礼になっていた。


 何を気にしているのだろう、と市松はぼんやり思った。

 この俺がこんな小さなことに気を取られる理由はないはずだ、今まで黒崎が何も言わないという事はアイツは俺に何かをするつもりはないという事だし――そう証拠もない。

 証拠がないなら仮に黒崎が俺に何かを言っても平然としらばっくれてやればそれまでだ。おお、俺って意外に天才かもしれない――市松はもう何度目かになる自問自答を呪文のように繰り返す。


「おい、市松」


 何を思ったのか後ろの席の友人が控えめに、市松をつついてきた。

 担任の若い男性教師の話を聞き流しながら、こっそり後ろを見ると、精悍な顔つきの中学来の友人が心配そうにこちらを見ていた。


「珍しく顔色が悪いが何かあったのか。悪事がばれてしまったこそ泥のような顔をしている」


 図星である。

 この男、風船護は妙に勘がいいのか、ヒヤリとするような発言をよくする。なお、彼の苗字風船はフウセンと読むのではなく、カザフネと読む。


「い、い、いや、腹の具合が悪くて、少し」


 友人の鋭い指摘に市松はたじたじに応えるが、風船はあっさりと納得した。


「そうか、大事にすると良い。腹痛の時はすりおろしたリンゴが効くらしい」

「お、おう。ありがとな」


 風船護、彼は妙に鋭いが、その一方でお人よしが三乗になっているぐらいに他人を信じる男である。

 この究極のお人よしが人にはまわりまわって誠実に映るらしく、彼の古風な好青年であるルックスも手伝って市松並にモテる。

 更に、浮いた話に興味がないのか、女子の申し出を一つ一つ丁寧に断っているため、彼は心に決めた人を一途に追いかけているのだのなんだと、よく女子の噂になっている。


 ちなみに、市松が過去に好奇心で確認してみたところ、特に忘れられない人がいるわけではなく、ただ今の自身には必要ではないと判断したからお断りしただけ、ということらしい。

 現実とは噂よりも色気も何もない無味なものである。


 閑話休題、無事に友人の追及をやり過ごし、終礼が終わるやいなや、市松は大げさに腹を抑えながら、脱兎のごとく教室を飛び出していった。

 流石の市松もカンの良いお人よしの友人の前で嘘をつくことにばつの悪さを覚えたのだろうか――そんなはずがない。


「おい、市松! 今日お前掃除当番だぞ!」


 背後から鋭く呼び止めるクラスメイトの声、無論これが逃走の理由である。が、市松が教室に引き返すはずがない。


「悪い! 腹痛で死にそうなんだぁぁぁ!」


 死にそうな腹痛にしては実に見事な走りである。

 だが、颯爽と立ち去る市松に反感を持つものは不思議なことにクラスにいなかった。理由は単純だ。


「ああ、市松か。先ほどから腹を下しているそうで辛そうだったから、見逃してやってくれ。俺が市松の代わりにやろう」


 お人よしの好青年は男女問わず莫大な人望を得ている。この風船が言うのだから、誰も疑うことがない。

 おまけに他の生徒の仕事量が増えるわけでもないので、不満はでない。持つべきものは出来すぎた友人、なのである。

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