二話
少女はその後、朝礼ギリギリまで教室に戻ってこなかった。
市松としてはいつ自分の悪事をばらされるかと冷や汗ものであったのだが、教室に戻ってきた彼女は先ほどとは違う静かな表情をしていた。あまりに別人のようで市松は自分の頬をつねってしまったくらいだ。
傘の件を確認したい気もしたが、クラスメイトの大勢いる前で話す度胸などをこの市松が持ち合わせているはずもない。何故かとてつもない敗北感を覚えた。
少女の名前は相変わらず思い出せなかったので、クラス名簿で確認した。黒崎麻衣、聞き覚えは有る気もするが、特にピンとこない名前だった。
狐につままれる、というのはこの状況だろうか。市松としては最悪の事態になりかけたわりには大事にされなかったため助かったが、それでも釈然としない。何かとてつもなく嫌なものを見落としているような気がした。
この予感はだいぶ引きずった。正午になり、学食で待ち合わせをしている時も、少し市松は上の空だった。
「……義弘君? 悩み事でもあるの?」
柔らかい声に顔を上げると、そこには市松の彼女である姫森初音がいた。
姫森は隣のクラスでテニス部に所属している学校でもかなりの有名人である。
何せ彼女は文句なしの美少女であるのだ。肩まで切りそろえた艶やかな髪、猫のような大きな瞳、白い肌、市松を含めその年ごろの少年を鷲づかみにする魅力的なプロモーション、加えて性格も人が良く嫌われている話を聞いたことがない、姫森初音はそんな完璧な美少女だった。
驚くべきことに一週間前から市松は彼女と付き合っていて、昼は毎日彼女と学食に来ていた。
市松が何故姫森を彼女にできたかというと、実は市松にもよくわかっていない。
ただ付き合う時に姫森から「条件がいい」と不動産がごとく説明されたので、自分がイケメンだからだろう、と解釈している。
加えて、その際に契約だのなんだかんだ言っていたが、自分がイケメンゆえの照れ隠しだろうと認識している。
実際市松は中身は置いておいて、見た目は非常にハイスペック、高身長で甘いマスクにすらりとした体つきをしていた。
しかも勉強も運動も人並み以上にできたので、女子には割にモテる体質だった。世の中、中身は意外に大事にされないのである。
「え、いや、別に」
「そう、ならいいけど。あ、これ今日のお弁当」
姫森は市松と付き合ってから、毎日弁当を作ってきていた。告白された時は何となく了承して付き合い始めたが、今となっては正解だったと思う。
姉の作る弁当はマズいし、友人からは羨ましがられるし、何より周囲から羨望のまなざしを送られることは自分の自尊心を満たしてくれる。
「今日はハンバーグに挑戦してみたの。動物型に抜いてみたんだけど、可愛いでしょ」
「ああハンバーグ――ハンバーグ?」
可愛い彼女が自慢げに広げる弁当を覗き込み、市松は固まった。
「あれ、義弘君、ハンバーグ苦手だった?」
「……いや」
牛肉は好きである。市松は魚よりも肉派で、肉の中では牛肉が好きだった。だから、問題はそこではなく、ハンバーグの形にあった。
動物型に挑戦してみたというハンバーグはどんな過程を経たのか、見事に猫の顔の形をしていた。ひょっとしたら熊か垂れ耳兎なのかもしれないが、今の市松には猫にしか見えなかった。
「いや、少し忌まわしい出来事を思い出してさ」
猫になれ、非現実的すぎる言葉だが、だからこそ堂々と言われると怖いものが有る。心霊オタクしかり、UFO研究家しかり自分に理解できない物事は気味悪く感じるのだ。
「忌まわしいって、なんか大げさだね。何があったの?」
「何かっていうか」
市松は頭を掻いた。誰かに話したい気もするが、語る上にはまず己の小さい悪事について語らなければならない。それは問題である。
「まあ、ちょっと面倒なのに絡まれたってだけだ」
結局市松は誤魔化すようにそう言って、口の中にハンバーグを放り込んだ。だが、姫森は不思議そうに首を傾げた後、すぐに悪戯っぽい瞳になった。
「あ、分かった。女の子でしょ、その面倒なのって」
「へ?」
「分かるのよ、女の勘ってやつ」
若干斜めに飛んでいる節はあるが、到達点は間違っていないので、市松は目を白黒させた。ここまで分かりやすい反応をされるとは思っていなかったのか、姫森がクスっと笑う。
流石にここまできて隠しきれるとは思わなかったので、市松はぼかして話すことにした。
「相手が女なのはそうだが、お前が思っているような事じゃないぞ。面倒ごとになっただけで、色恋沙汰では断じてないし、第一アイツは俺の好みじゃない」
「へぇ、アイツって仲がいいんだね。義弘君のクラスの子?」
姫森はどうってことのない笑顔だったが、仮にも恋人から他の女子の追求をされるのはとかく恐ろしい。市松は慌てて言いつくろった。
「いや、本当にそういう話じゃないから。相手は黒崎っていう地味の眼鏡の俺の好みの外だから! あそこまで甚平で地味で、とどめに電波系とか本当に興味ないから」
「え、黒崎って、C組の黒崎麻衣さん?」
姫森が驚いたように目を丸くした。市松はホッとして、誤魔化すように話題に乗った。
「おう、その黒崎。知っているのか?」
「知っているっていうか、黒崎さんって一時期うちの学校の七不思議とかいって噂にならなかった? 五月くらいに」
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