一話
六月の第一週の火曜日、市松はいつもより三十分早く家を出た。
理由は単純明快である。昨日拝借した傘を人知れずこっそり返却するためである。家にこのまま置いておくと、姉に見つかってとても面倒くさい事態になることは目に見えている。彼のひいきしているグラマーなお天気お姉さんのコーナーが見えなくなるのはもったいないが、背に腹は代えられない。
市松は今回は父親の傘を拝借しつつ、何者かの傘を片手にいつもより大分空いている電車に乗った。珍しく座ることが出来たので市松は上機嫌だった。
実はちょうどこのころ父親が家を出ようとして傘がないことに気が付き、義母の予備の傘を使うか娘の予備の傘を使うかという苦渋の選択をしていたのだが、この市松が気が付くはずもなかった。
比較的人の少ない通学路を、隠し持つ傘に気づかれないようにこそこそと歩きながら、市松は教室へとたどり着いた。
大概この時間帯に来る生徒は部活の朝練がほとんどであるため、廊下や教室に人影はない。
市松は何食わぬ顔で傘立てに二本の傘を突き立てる。後はこのまま教室に戻って知らぬ存ぜぬを通せば、ばれることはないだろう。
「あら、あなただったの」
市松の背筋が凍り付いた。
誰もいないと思っていたが、いつのまにか背後に女子生徒が立っていた。慌てて振り返ると、彼女は長い黒髪に眼鏡をかけたやや見覚えのある少女だった。
名前は覚えていないが、確かクラスメイトの地味目な静かな少女だったと思う。断定できないのは少女が日ごろとは違い、ゴキブリをみるかのような下げずんだ目で市松を見ているからだ。
市松は一瞬ひるみかけたが、無言でいれば罪を認めているようなものだと思いなおし、彼女を軽く睨みつけた。
「……な、なんだよ」
カッコよくビビらせるはずが、いざ声に出すと盛大に震えた。これでは逆効果も甚だしい。
全力で虚勢を張る市松を、少女は相変わらず冷たい目で見ながら淡々と言った。
「その傘、私のなんだけど」
「……嘘だろ」
市松の顔が引きつる。実に最悪の展開だった。
「あら、ここで私が嘘をつく利点があるかしら?」
ニッコリと少女はそこで笑う。だがその目はまるで笑っておらず、彼女の素敵な笑顔は尋常でない怒りを強調させるだけであった。
この危機的状況にようやく合点がいった市松は、慌てて流れ落ちる冷や汗の中で訳の分からない弁解を始めた。
「いやあのこれ紳士用だから、君のなのかなぁ、と」
市松は何とも言い難い微妙な笑顔を少女に向けた。つい困ったときにとりつくろう笑顔を浮かべてしまう、市松は世に多くいる残念な日本人の典型であった。
が、心底怒った人間にこういう笑顔はご法度であることも典型である。当然全く緩和されていない絶対零度の言葉が市松に降りかかる。
「それが私がこの傘を使ってはいけない理由になるとでも?」
「ならないんですけど――俺も昨日傘盗まれちゃって、その出来心というか」
「それが私の傘を盗んだ理由?」
「まあ、ぶっちゃけ。でも悪気はなかったし、元をたどれば俺の傘を盗んだ奴が悪くて、俺はそんなに悪くないような――」
市松はそこで口をつぐんだ。
少女の顔はますます完璧な笑顔になっていた。その完璧な笑顔に言いようのない恐怖を覚え市松の顔が凍り付く。
「分かったわ」
少女は完璧な笑顔のまま静かに宣言した。
「あなた、とんでもないクズね」
「いや、悪いことをしたとは思うけど、クズよばわりされるのは――」
「別にあなたの見解は聞いていない」
ぴしゃりと少女は言い放ち、蛇に睨まれたように動けない市松に、右人差し指を突き付けた。
「もういい、お前――猫になりなさい」
「……はい?」
彼女は何を言っているのだろう。
罵詈雑言を市松に吐き捨てるならともかく、よりによって猫になれとはまるで意味が分からない。
あまりに思いがけないことに市松は間抜けた声をあげてしまった。が、少女の方は何の疑問もないのか、尊大に言い放った。
「私の傘を盗んだ罰よ。せいぜい後悔しなさい」
「すいません、意味が分からないんですが」
混乱しているからか、思わず敬語になる。が、少女は市松の疑問を容赦なく叩き落とした。
「私の知ったことではないわ」
そこで満足したのか、少女は話は終わりとばかりに市松に背を向けた。
心なしか楽しそうにも見える背中に言いようのない不安を覚え、市松は呼び止めようとした――がそこで気が付いた。呼び止めようにも市松は彼女の名前を覚えていない。
結果、市松は謎の発言に頭を悩ませながらも、その場に立ち尽くすほかなかった。
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