信じたかったあの色彩のこと


 苔色の雪が降った。


 彼女はそう言って、窓枠に手をかけ、止める間も無くがらりと開く。一瞬、風が過り、世界はちかちかと明滅する。背筋から離れない悪寒に身を縮ませ、ただ僕らは微笑む彼女の子供のような無垢な輝きを凝視していた。あるいは、何人かが、たまらず、声にもならない呻きと共に崩れ落ちる。その拍子、がたんとどこかで机がけたたましく鳴いて、初めて彼女は異変に気がついたらしい。どうかしたの、大丈夫? いつもと同じ明るさのまま紡がれたいつもと同じような言葉は、あたりをさらにしらけさせる以上の役は果たさない。

 遠くから、近くから、無数の轟音が発せられ校舎をぐらぐらと揺らした。先ほどから非常ベルはなりっぱなしで、もはや慣れきって耳にもつかない。高く空を切る鉄の鳥の飛翔音ばかりが頭に響く。ぐらり、ぐらり。立て続けに襲う衝撃に耐えるべく、床に壁にへばりついてもなお僕らは彼女を見た。視界から彼女を損じてしまえば、何が起こるかわからなかったから。

 何一つ、言葉にできない。

 乾きすぎた喉からはどんな音を生み出せもしない。でも、ある一人の勇者は、辛うじて言を紡ぐことに成功する。

「……あってる」

「え?」

「あってるんだよ!」

 彼女は理解不能だと言うようにぽかんと口を開けてその発言者を見つめた。

「あってるんだよ、色!」

 もう一度、声が飛ぶ。

 その場の彼女以外の誰もが思っていたことだった。

 しかし、それではさすがにわかるまい。現に彼女は困り顔でまたも聞き返す。今度はみな比較的すんなりと返答に勤しめた。曰く、確かに苔色の物体がそこにはあって、今も、ばらまかれ続けていて。あなたの知覚はいつも私達とはずれていて、特に色について私達と同じものが見えていたことはなかったはずなのに、今だけは、あなたの見ている色が確かに私達に重なっている。そう説いてもまだ理解には及ばないのか、彼女はうーんと考え込んでもう一度説明してくれと言った。

 これ、何色に見える? 一人の女子が自らの筆箱を掲げた。水色に、黄色のファスナーがあしらわれたデザインのそれを見て、彼女はなんでもないふうに、オレンジ、と答える。至っていつも通りに。じゃあ、空は? 振り返り見やれば、飛び回る鉄と煙、暗く黒ずんだ空が街を飲み込み蹂躙している。彼女は当然のように白だと言う。これが? そうだ、これが、彼女の当然なのだ。僕らはとっくに知っていて、知らないのは彼女だけだった。彼女の見ている色が違っている。いつからか、僕らはそれを皆で隠し通そうとしてきたのだ。

「色が違う?」

 刹那、首を傾げた彼女の背後、開いた窓から衝撃波が室内の空気を叩いた。彼女は転倒し、どうにか机を避けて受身をとる。

「だ、大丈夫!?」

「怪我、ない?」

 心配する声が、多く上がった。

「気にしないで。それより色が違うってなに? いや、それはいいや。『あれ』だけ、みんなと同じく見えるの?」

 窓外は黒煙で埋め尽くされ、もう何も見えなかった。しかし彼女は迷いなくそれを指し示す。そして、数秒して、煙を突っ切って苔色の塊がそこに現れた。

 ああ、死ぬ。

 悟り、思わず手を組んだ。

 僕は彼女とは仲がよくなかった。かといって悪くもなく、ただ話したことのないだけのクラスメイトだった。それでも彼女の『知覚障害』はちゃんと知っていたし、それを彼女には悟られまいと協力してきた。異端の彼女をいじめようと言ったものはなかった。彼女は知覚のずれがなければ大変に優れた性格で、このクラスのまとめ役を務める上位層とも親しくしていたためだ。そうして、皆が彼女と自身の平穏のために、普通でないものを、普通であると偽って過ごしてきた。

 いいや、きっと僕らが間違っていたのだ。

 彼女が正しかった。世界がとうに壊れていたことに、彼女だけが気づいていた。僕らはただひたすらに未だ平穏がここにあると信じて疑わずいた。

「今更気づいても、なぁ」

 どう現せるのかを思考する余裕もなく、衝撃が僕らを校舎ごと巻き込んで突き進み、すべてが真っ白な、空に躍り出る。痛みも音もない。暴力的に荒ぶ風が全身を打つ。遠く、今更取り乱して叫ぶ、あるいは失神した、あるいはまだ理解できない様子の友人達が空を舞っている。僕もまた例外でない。しかしやはり彼女は驚かない。


「苔色の、雪が降ったんだよ。ものすごい吹雪でね、みんな凍っちゃうくらいの、雪が降った」

「もう、いいよ」

「なにが?」

「苔色の、爆弾が降ったんだよ。ものすごい弾幕でね、みんな死んじゃうくらいの、爆弾が降った」

「そっか。やっと、見えたんだ」

「うん」

「遅いよ」

「……うん」


 何も知らぬまま、気づこうとしないまま、ぎこちない虚構にすがって生きた僕らの末路だ。

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