デリュ―ジョン
世界が狂って見えるのは、主観が狂っているからだ。主観が純真であれば、この世界はさぞや綺麗で秩序あるものなのだろうし、主観が悲観的であれば、世界は悲しみに満ちたものとなる。そんな、個人にとっての世界を決定する主観が、複数より集まって客観となれば、それは事実として受け入れられよう。まあ、どれほどの集団となれば客観と言いうるのかも甚だ疑問である。何万人と集まってなにやら概念を現存するように宣えど、何億人にはその影も認識できなかったとすれば、その何万人は集団妄想を見ていただけとも言えるのではなかろうか。そう考えると、認識とは不確実且つ千差万別なものであり、信頼性などという概念についてどうも私には理解が及ばない。
ましてや、世界の認識を執り行うものが一人といった場合は、言うまでもなくあらたかだ。
完全な一主観によって形成されたこの世界は、なかなかに素晴らしく狂っている。
私だけが、狂っている。少なくとも私はそう思いたい。もし、万が一、私でなくて二百程度の国々を有する広々とした地球の全域がそうだとすれば、世界は昨日にも終わっていよう。いや、わからないが。
さて、高尚な思考に更けるのもよろしいが、ここではあまりぼやぼやしてはいられまい。
凍りついた荒野には、点々と、黒々とした異物が転がっていた。寒い。あてにはなりそうもない私の体感温度は、間違いなく零度を下回って余りある。ついでに言うと季節は初夏、時間帯は朝、場所は空調完備の部屋の中のはずなのだが、こうも震えがやまない極寒にさらされようとは、今日はついていない。
この現象はおそらく過剰すぎる私の妄想癖の賜物であろう、と私としては認識している。医師に診せれば見解はどうなるか知れないが、ともかく私の狂いはそういうものなのだ。唐突に、周囲の環境が激変したように思えて、現実らしきものを見失ってしまう。客観世界から主観世界へ移行してしまうとでも言うべきか、あるいは白昼夢であると形容すべきだろうか。
さて、今回は、どうやって客観世界へ帰りつけばいいのだろうか。この現象に慣れている私の教訓として、戻るため、手始めにはとにかく歩くことだ。私の御花畑な頭の中にあるこの場において、私が四肢を動かすというのは、基本的にはただの妄想の出来事でしかないが、稀につい現実の四肢を動かすことがある。それにより私が現在いるのであろう部屋の壁にぶつかるなどできれば、痛みなどのため白昼夢から目覚めることができる。……それが、あらまほしき理想型だ。
震えて動かしにくい足を前へ。息を吸うと、空気の冷たさに喉が痛み、盛大にむせこみそうになる。どうにかこらえ、荒い息を吐く度に、目の前に白い霧がかかって、やがて散った。
ごろごろっと転がっている黒々としたものたちには、できるだけ目をくれないようにする。見慣れている、見慣れているのだから。そう自らに言い聞かせつつ、氷雪の絶えない荒野を、宛もなくさ迷う。延々と同じ景色が続く。黒々とした彼らの姿にさえ、違いを見出だすことができないのは、私が薄情だからか、それとも妄想が不完全だからか。もとより、彼らをよく見てなどいないのだから、おそらくは前者と言えよう。
踏み抜くと、わずかに散らばり、静まる雪が、鬱陶しくてたまらない。
たちまち、主に精神が、疲弊する。
「はあ……」
ああ、寒い寒い。前身が軋み、傷んでいく感覚がまざまざとある。拷問か、と叫びたくなるこの寒さを私が創り出しているのでなかったら無性に沸き上がる嫌気に本気で叫んでいたところだ。それはそれで喉に冷気が舞い込むので嫌だが。
彼らを視界に入れていることに耐えきれなくなり、私はすがるようにめいっぱい首をそらして空を見上げる。ただでさえ極寒に際して呼吸が覚束ないというのに、息が詰まり、肺にかかる圧迫感に苦しさが増していく。
一面、赤銅色をしていた。
なんたる禍々しさ。
背筋にさらなる悪寒が走り、思わず自らをかき抱く。刹那、恐怖と呼ぶにふさわしいだろう感情が私の全てを支配した。赤黒い空、凍った大地、そこに折り重なり倒れている変色し硬直した人々の亡骸。そんな空間の真ん中に私はいるのだ。こんな寂れた凄惨な妄想のただ中に!
これだから私の精神は狂っているというのだ。誰が好きこのんでこんな夢を見たがるものだろうか。平和な現実が恋しくて泣きたくなる。私は今、パイプ椅子だけがぽつりと置かれた何もない部屋の中心で、呆け、焦点の定まらぬ目をただ開いて朦朧としていることだろう。この夢から目覚めれば、周囲の人から奇異な目で見られ、医師のもとへ引っ張り込まれるのだろうが、それでもいい。悪夢よ、どうか覚めてくれ。なにかが起こってしまう前にどうか覚めて。
目を瞑り、踞る。こうして動かなければ、体温は急速に奪われ、寒さによる苦痛が増大していく。寒い。寒い。こんな場所ではとっくの昔に凍死していて可笑しくない私が凍えるに任せて生き続けているのは、ひとえにここが私の妄想だからなのだ。心底思う。死ねたら楽なのに、と。死なせてくれないのなら、せめて、妄想なんて消えてしまえ。私のこの害悪ばかり産み出す脳みそなど握り潰せたらよいのに。
ふいに、金属の擦れるような、かすかな音がした。
「そうかあ。きみが犯人なんだね」
言って、ちゃちな拳銃を私に突きつける、影。黒い影。空と同じ赤銅色の混じったその足元が視界に入るなり、私はまともに機能しない喉から声にならない悲鳴を上げた。ぼとり、と尻餅をついた私に粘性のある液体が落とされる。赤い、血の混じった、しかし腐臭のするそれの正体など考えたくもない。その異物が変色しきった黒い手に持つ拳銃だけは美しく重厚に輝いた。
金属音が、連鎖し、呼応するように赤い空に満ちてゆく。死体であるはずの彼らは、一様になんらかの武器を手にして、こちらを睨んでいた。殺意を持った目に限ってはまだ生気があるにしても、その身体で立ち上がられては多少は慣れている私でさえ目も当てられない。
「神様を恨む権利くらいはあって然るべきだ」
「こんな不条理を課したきみを許すわけはないだろうに」
「よくもまあ、狂った世界を創り出してくれたね」
「報いくらいは受けてくれるんだろうね?」
ああその通りだね。狂っているよ。世界は、私は、やはり果てしなく狂っている。今日も今日とて、ついていない。こんな悪夢を見るはめになるなど、全くもってついていない。しかし生きなくては。こんな忌まわしい脳をもってしても、私が死ぬ理由とはなりえまい。
さあ、どうせいつものことだ。落ち着こう。
震えを抑え込み、立ち、憎しみに燃える彼らの目をまっすぐに見据える。私は仮にも創造主なのだ。神に仇なす者には鉄槌をもってしかるべき。あるいは、明らかに殺人の意思がある相手には正当防衛をもってしかるべき。
今回は、これが終われば、いつものように帰れるのだろう。
「わかりました。あなたたちの怒りを受け入れましょう。ですが、私も一人間なのです。生きるためですので、ご容赦を。」
その後の詳細な報告は避けることとしよう。
ただ、寒さが薄れるほどの熱を彼らが未だ秘めていたことには驚いた……とだけ、言っておく。
「……おかあさんはもう帰ってしまったのでしょうか?」
「面会は不可能と判断しましたので。手紙は預かっています。」
「そうでしたか。拝見しても?」
「ええ。こちらです。」
「ありがとうございます。」
彼女は、誰しもが異質であるこの拘置所の中でも輪にかけて異質であった。
スイッチが入らなければ、礼儀正しく、気配りのできる印象の良い女性でしかない。しかし、スイッチが入れば、朦朧とし、会話も成り立たず、酷いときは歩行もままならない泥酔者のようになる。そのうちに徐々に行動が攻撃的になり、数人がかりで押さえてでもいなければ周囲の誰も彼もを殺めかねない。そんな状態はしばらく待てばぴたりと収まり、またいつもの大人しい彼女に戻るのだ。通常ならまず間違いなく薬物依存を疑うところだが、しかし彼女に薬物乱用の経歴は一切ない。精神科医や脳外科医がありとあらゆる検査を施しても、結果は極めて一般的で異常なし。過去にトラウマとなりうる出来事も見つかってはいない。だのに、彼女は狂っていた。
なんでも、中学校の授業中、突然朦朧とし、保健室に連れていこうとした教員を含めたクラスの友人など二十人強を“鮮やかな手際で”惨殺したというのだ。頭脳明晰だが、体育の成績だけは芳しくない、そんな生徒だったと聞く。それが、数分と待たず、たいした凶器もないのに大勢を殺めてゆく。異常以外の何者でもなかろう。彼女の起こした大量惨殺事件は、何年か経った今も忘れ去られることなく語り継がれている。
正直、彼女の発作的な暴走をいくらか目にしてきた私も、少々恐ろしさを覚えなくはない。
「……一つ、独り言をお許しください。」
母からの手紙にざっと目を通した彼女が、恭しい丁寧な言葉使いで話しかけてくる。
「どうぞ。」
「私は、明日死にますが、では、彼らはどうなるのでしょう。」
「“彼ら”?」
「私が今まで殺してきた彼らは、私と共に、安らかに眠ることができるでしょうか。あるいは、私の死に、ようやくだと安堵し喜ぶのかもしれません。……あるいは。」
彼女はどこか遠くを見る目を、そしてどこか多大な慈悲を秘めた目をして、ただおとなしくそこに佇んでいた。言っている内容は死刑確定者特有の諦念を含んでいたが、まさか、死刑確定者がこんな顔をするものかと、私はまた驚く。被害者にこれほど謙虚である殺人犯は、相当に珍しいものだが。
澄んでいた。聖人にさえ、思える。
そんな彼女は、今日まで来て、何を言わんとするのだろう。
「彼らは、あんな場所に存在することを望んだでしょうか。望んで、あんな場所でも、幸せでありたくて、それだから、私を憎んでいたのだとすれば。それは、つまり、彼らは私に依存していたことになります。」
唐突に、理解が追い付かなくなる。ついに彼女は発狂したか、とさえ疑われた。無理もないのだろう。明日、彼女は死ぬのだ。追い詰められて、壊れてしまっても、なんら不思議なことはなかった。が、当の彼女はひたすらに清らかであるのみ。
だから、私達は、油断をしていた。決定的に迂闊であった。なにせ、根拠もないのに、スイッチが入っていないときの彼女ならば安全と信じて疑わなかったのである。
彼女は、わざわざ私に許しを乞うてこぼした最期の独り言を、以下のように締め括る。
「だとすれば、私が死んでも、結局、彼らは私を恨むのでしょう。彼らを救う方法は、なかった、ということになります。とても、悲しいことに。」
決然とした声であった。
その後の詳細な報告は、避けることとしよう。
ただ、翌日にもその先にも彼女の死刑が執行されることはなかった……とだけ、言っておく。
はたして、彼女は、偶像の “彼ら”を救うことができたろうか。
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