こもれび
「私はこの木の下から動けない」
重なりあうようにして生い茂った深緑の葉のもとに、一人の少女が腰を下ろしたたずんでいた。緩やかに吹く風に揺られかすかに騒ぐその大樹は、少女の頭上に惜しげなく枝を伸ばし、色の濃い影をやわらかな土へと深く落としている。葉擦れ以外の音はない。永らく続く静寂に紛れ、まれに点々と注ぐ木漏れ日が、少女の足元に星空にも似た模様を描き出す。
少女は、自らを含めたその様子に目を細め、ただじっとうつむいで眼下の星空を眺めているのみである。そして、大樹は、ただ聳え立つ大樹であるのみである。
夜になれば、辺りはすっかり黒闇に包まれる。朝が来て、晴れていれば、また星が降る。雨が降れば、星の代わりにまばらな水滴がやわらかな土と少女を襲う。風が強ければ、多くの葉が鋭く舞い荒び少女を傷つけるが、翌日の降る星は増していっそう輝く。雪が降れば、土は凍り、枝から落ちる雪に少女は身を震わせることとなる。
しかし、それでも、少女はこの木の下に居続けた。それは少女にとっては至極当然で、疑う余地もないことであったためだ。
ある時、一人の旅する少年が木の下にたたずみ続ける少女を見つけた。
いったいそんな暗がりでそんなにボロボロになって、何をしているのか。興味をひかれた少年が問うと、少女はすぐさま首を振ったという。「貴方にはわからないよ」と。
「どうして?」
「貴方は別の世界の人だもの」
「別の世界……?」
「はじめまして。ようこそ、“地球”へ」
微笑んだ少女に、少年は怪訝そうに眉をひそめた。
「地球へ、って。何を言っているんだ。君は僕が宇宙人か何かだと思っているのか」
「違うの?」
「当たり前だよ。僕は上から下までちゃんと人間だ」
「じゃあ、ようこそじゃなくて、おかえりなさいかな?」
どうにも話が通じていない。少年はここに一度でも来たことはないはずだ。そう伝えると、少女はとても不思議そうな顔をする。困惑したいのはこちらだと、少年は頭を抱えるとともにさらに少女への好奇心を抱いた。そして「僕もしばらくここにいてみていいかな」そうのたまい、影に覆われ風雨に晒され渇いた土に腰を落ち着けた。
そうしてしばらく二人は時を共にした。
夜が来て盲目になると、少年は不安を訴えた。朝が来て光が見えると、ようやく安堵の息をついた。雨が降り雫に打たれると、少年はぬかるむ土に顔をしかめたが、どこか楽しげに水と戯れた。風が吹いていくらかの葉が舞うと、少年は少女を守ったが、後に傷に堪えるように笑った。雪が降って氷に触れると、少年は凍えた指先で死に絶えようとする土を撫でた。そして、大樹からかすかに降る星々の輝きには、二人して喜びあい、光の糸を紡ごうと手を伸ばした。
そこでは大樹はただ大樹であり、少女はただ少女であり、少年は確かによそ者であるのみだ。
どんな過酷な雪の日にも木陰から一歩も出ようとはしない少女に対する不信感は強まるばかりで、そうしながらも少年は少女に惹かれざるを得ない。こんな環境でも木漏れ日を目にする度にやっとの安堵を噛み締め微笑む少女のほんの僅かな幸福を、誰が尊ばずにいられるだろうか。
しかし、少年は少女を見かねてもいた。少女には、この木陰から出たとたんに一面が光に包まれるのだという認識が、どうやら一切ないようであったのだ。木陰以外の世界をそもそも知らない。ここだけが、少女にとってすべてなのである。
「そうか。君はこの木陰が好きなのか」
「そんなわけない」
「……そんなわけないのにどうしてここに居続ける?」
「仕方ないじゃない。私はここに居るんだもの」
少女は、そう言って、ボロボロの自身を抱き締め、また土に映える木漏れ日に視線を戻しうつむいた。
ある夜、ひどい嵐が大樹を揺らした。
雨、風、葉、土、枝がそれぞれに細かく舞い荒び二人を襲うなか、少年はついに少女を木陰から引っ張り出そうと試みる。が、すでに弱りきっていた少女にはもう立ち上がる力もなく、それでいて未だ頑なにその場に留まろうとし続ける。
せめてこの木から離れさえすれば、葉に切り刻まれることも枝に殴られることもない。雨風を防げはせずとも、ここよりはきっとずっとましの筈である。とにかく今の病的な少女には安全な場所で休養してもらわねばならない。その旨を必死に説いた少年だったが、少女は聞く耳を持たない。
激しい雨の雫が、あの木漏れ日のようにぽつりぽつりとした輝きを黒闇の中にもたらした。それによって視界が晴れることなどありはしないのに、少女はずっとそんな小さく曖昧な光にばかりすがってきたのだ。すがってきたからこそ、この光から逃れることが少女にはできずにいる。どれだけの害に見舞われようと、一瞬でも、この場所に優しさのようなものを見てしまうから。だから少女は今まさに滅されてゆこうとしている。
少年は自身も嵐のさなかに傷つきながら無性に怒りを覚え、息を震わす。
「こんな場所に居続けてなんになる! こんな暗い所にどれだけいても君が傷つくだけじゃないか!」
風雨の勢いは増すばかりで、目の前にいるはずの少女の様子は窺い知れない。ただ、少年が気がついたときには既に、あの弱々しい腕からは想像もできない強い強い力で肩を押され、大樹のもとから叩き出されたようだった。
雨垂れが地を叩くけたたましい雑音に紛れ、弱くちいさな声がかろうじて少年の耳に届く。
そして、強烈な寒気と全身が渇いたような感覚にあてられ、少しずつ少年の意識が遠退いた。
「最初は好奇心だったんです。ほら、あいつクラスでもいつも一人だし、ぜんぜん普通に話とか通じなくて天然で、ちょっとからかってやろうかなーと思って話しかけたんですよ。そしたらなんか、いつの間にか色々知っちゃって」
「あいつ自身が構わなくていい、別に平気って言うもんだから、しばらくは放置してました。でも、見るに見かねたんで何回かは聞いたんですよ。ほんとに逃げなくていいのかって。でも、あいつ、逃げる方がこのままより嫌だって言って。えーと、理由はただしくはわかんないんですけどね……」
「あいつって、こう……うん、あの家が世界のすべてだって思ってたみたいなんです。それと同時に自分を形作る必要不可欠なもんだって。だから、外に行くって選択肢が頭ん中にそもそもなくて。外に行ったら自分が自分として生きていけなくなるっていうか。まぁ、もう逃げる気力もなくなってたっぽかったですけど」
「それに……あいつの親、他人から見たら酷いもんですし俺も許せないんですけど、あいつはうちの親は優しいよって本気で言うんですよ。普段はあんなだけど、優しいときもあったみたいです。あ、いえ、詳しくは聞いてないです。でも、だから、あいつにとっては親はちゃんとこう、暖かい両親だし。あの家が他には考えられねえくらい一番の居場所だった? のかなって……」
「なんだかんだほんとにあいつ、いつも楽しそうなんですよ。よく一緒にふざけた話もして……俺も楽しかったし。あいつなりに満足して、大切にしてたんだと思います。自分の立場? 居場所? みたいなのを」
「なのに俺、あいつがまた殴られて痣だらけになったの見たら我慢できなくて、なんでそんな糞みたいな家にずっといるんだよって。自分勝手にキレちゃって……ええ、心底後悔してます」
「……口きいてくれなくなりました。“あなたにだけは否定されたくなかった”って、言われました」
「そんでもう関われなくなっちゃったんです」
「……」
「…………」
「……あいつが嫌がるかどうかなんてどうでもよかった!」
「あいつに嫌われて一生縁切られてもなんでもいいから、無理矢理拐ってでも助けるべきだったんですよ! かなりヤバいってわかってたんだからさっさと警察にでもチクりゃよかったんです! なのにあいつの連絡がなくなっただけで俺は簡単に引き下がって!」
「救えなかった……」
「俺、どうしたらいいんですか……?」
「なんであいつが殺されなきゃいけなかったんですか……?」
「なんで俺助けに行けなかったんですか……!」
「なんで…………っ」
換気のため開かれた窓に、ひらひらと、深緑の葉が舞い落ちてくる。とめどなく室内に流され続けていた懺悔の声が、とたんにピタリとやんだ。
机に乗った葉を、少年の向かいで話を聞いていた青年が拾い、捨てようとしたが、少年はとっさに立ち上がることで制止する。
「捨てるならゴミ箱じゃなくて外にしましょうよ」
「ああ、それもそうだね」
窓から放たれた一片の葉は、風にあおられくるくると踊り、木漏れ日の差す木陰のもとで落ち着いた。少年はその光景からさっと顔を背け、黙って、窓を閉めた。
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