空想世界滅亡集

朝の光

マリーゴールド


 雨やみそうにないなあ、とつぶやく声が、広々としたこの部屋に設けられた大きな窓ガラスに吸い込まれていく。灯りのない四角い室内には、激しい雨垂れを落とし続ける空からの淡い光だけが満ち、彼女の愁えた横顔を照らし出していた。

「そうですね……」

 たいした感慨もなく、相づちを打つ気すらないような風に、彼はそう返した。

 窓は雨霧で曇っていて、景色は薄ぼんやりとしているが、おそらくは、そこにはもう何もないのだろう。数ヶ月も前には存在していた街並みや人間たちの営みの全ては、もう何も。たとえば彼女がいつか憧れていた学校生活だとか、彼がいつか身を呈していたこの国の医療制度だとか……雨風の渦の中に、そんな残像が残っていればいいのだが、現実はそうもいくまい。

 彼女の細い指先は結露に濡れた窓から離れることはなく、そっと水面をなぞってなにかを描き出した。

「……きょうは、何を描いているんですか?」

「お花よ。たくさんの、綺麗なお花」

「そうですか……」

 徒然と見守る彼の先で、彼女は大窓を前にせわしなく動き回る。一分も待っていれば、徐々に白く冷たい室内に注ぐ光のかたちが変わってくる。

 彼は、この光景が嫌いではなかった。

 雨が降り出してから、今日で30日になる。この病棟最上階にいた二人だけが、荒れ狂う嵐の海に流された世界で、生き残った。病院内に残された食料と水だけで、どうにかまだ生きているのだが、きっともうそろそろ、自分たちに未来はないのだろう。

 いたずらに窓の結露で絵を描き、すぐに消えるそれらにもめげず、また何かを生み出し続ける彼女だけが、懸命に残された時を謳歌しているように見えた。彼女をただ見守り、彼女と自身の体調を管理しているだけの彼は、医者のくせしてこんな時に何をする気力さえ湧かない彼は、かすかな憧憬と羨望だけを胸に抱いている。

 そうしてこの二人も、ただ静かに、水に満ちたこの世界で朽ちていく人間のうちの一人でしかない。

「できた!」

 他人事のように考えていた彼は、彼女の声で顔を上げた。

 もう描き始めの辺りは消えかかっていたが、眩しくさえ思える可愛らしい花畑が、向こうの乱層雲と水滴と共に輝いていた。

「……相変わらず、お上手です」

「ありがとう!」

 彼女は蒼い顔をして、はしゃいだような声を出して笑った。

「ねぇねぇ先生、このお花の名前がわかる?」

「いいえ」

「マリーゴールドよ。ほんとに知らないの?」

 話しているうち、どんどん花畑のかげはかき消えてゆく。ガラスがまた白みを増すその様に視線を留めたまま、彼は単調な声音で返答する。

「名前くらいは聞いたことがあります」

「でしょう。じゃーあ、花言葉を知っている?」

「……いいえ」

 しばらく忘れていた雨音が、室内を、水中の国の跡から浮かび上がらせた。漂う沈黙が、二人を視線の糸で繋げる。

 とっておきの呪文を唱えるように、最も大切な秘密を教えるように、彼女は眩しそうな目でその言を紡ぐ。

「 “いのちの輝き”っていうの」

 ガラスの向こうの海を見つめた、彼女の目が少し揺らぐ。

「そう、ですか」

「ねぇ先生。お願いがあるの」

「……」

「この窓を、割ってくれない?」

 そのとき、雨が降り出してからはじめて、ようやっと彼の目に心が宿った。目を見張り、戸惑いを隠せなかった彼を前に、彼女は和かな目をしてはにかむ。

「……あなた、死ぬ気ですか?」

「私はどのみちもう長くないもの……。それにね、世界がもう亡いのに、これ以上、私がこんな病室にいなくちゃいけない理由もないはずよね? 先生も……反対するような理由、ないでしょう」

「それは……っ」

「外に。出たいよ。最後くらい……」

 微かに漂った光を、彼女の目に見た。

 彼は理解した。彼女が描いていた全ては、彼女の抱えていた外界への憧れからくるモチーフだったのだ。何年も以前にここに入院した彼女は、何年も彼と共に様々な治療を試したが、その病が良くなることは一向になかった。ずっとここにいた。彼もできる限りはここにいた。だから、生き残ってしまった。強く焦がれたものたちは、彼女の手が届くより前に滅びてしまった。いつかの彼が望んだ優しい世界も同じく、彼の手が届くより前に滅びてしまった……。

 そうかと思う。自身らにとって最善の選択は、確かにそれ以外ないらしい。妙に納得した気分だった。

 まばたき一つ。彼は息を吸う。一月前から自身を滅していた絶望の象徴である雨を見据える。すると、すっと、彼女の指先が伸びて、そこに一つの詩をあらわす。旧い、ノアの箱舟を模した歌の、その一説だった。

 世界を満たす雨音が、その刹那にのみ弱まった。

 彼女が詩を綴るほどに晴れるガラスの曇りを、彼は複雑な思いで見守っていた。ああ、見える雲間に、僅かでも光を見いだすことができたらよいのだが。





 それは唯一、雨音がいとおしくなる瞬間。びょお、と舞い込む多量の冷水と暴風が、二人の髪と服を暴れさせる。窓際に足をかけ、刹那、目を閉じる。

彼の瞼の裏には、透明に光を纏ったマリーゴールドの花畑の残像がまだ消えない。

「先生、」

「どうしました?」

「生きたい?」

「誰もいないところで、生きたいなんて思えませんよ」

「そうね……。先生は、ご家族とかお友達とか、みんな沈んじゃったのよね」

「ええ」

「ちょっとうらやましかったな。私、もとから誰もいないから」

「あなたの親い人も、この海の中にいることには間違いありません」

「あははっ、そうかも。じゃあーいこうか」

 眼前の海へと一歩。

 落ちる。




「……次に地球に咲く花があるなら――」



 水面に、二人ぶんの面積が叩きつけられ、けたたましい音を立てて、やがて全ては雨に流れていった。


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