死に損ない
川に入りたいと思った。
別に自殺しようとか思ったわけではない。ただ暑かったから。黒々と横たわるように流れる川が目に入って、脚を入れてみたら冷たくて気持ちいいかな、なんて馬鹿みたいなことを思いついてしまっただけだ。
太陽はとっくに沈んでいたけれど、変わらず熱と湿気が身体にまとわりつくようで、私は全身にじっとりと汗を浮かべながら川沿いを自転車で走っていた。
親に買ってもらってから十年経って、少しずつガタが来ている自転車はペダルに力を込める度にギシギシと音を立てる。重い。そういえば、先週買い物に行くと言う父親に貸してから余計に音が鳴るようになった気がする。
土手のランニング用コースは街灯が整備されておらず、都市部だというのに殆ど真っ暗だ。遠くの繁華街から漏れてくる光と、自転車のライトが気休め程度に辺りを照らしている。
向かい側から迫ってくる光がちらほら見える。真っ直ぐ迫ってくる光は自転車、規則正しく揺れているのはランナー、低い位置で色とりどりに光っているのは犬の首輪。
草むらの中に居るであろうスズムシだかコオロギだかの合唱と、自転車の音、水が流れる音。あとは徐々に近づいている大橋から微かに聞こえる電車と、車の音が私の耳に届いてくる。
静かだ。目も耳も、飛び込んでくる情報量が少ないからか、いつもよりよく働く。
スロープを見つけて河原に降りる。地面は砂利道だったらしい。さっきとは違うガタガタとした振動が伝わり、漕ぎにくさに拍車をかける。少しでも整備されてる道を探しながら川の方に向かっていく。ここら辺はホームレスも多いんだったっけ。母親に「夜の川沿いは危ないから通るのはやめなさい」と小言を言われたのを鼻で笑ったけれど、今思えば親の言うことは聞いておくものだなぁ、と真っ暗な道に少しばかりの恐怖を覚えながらも自転車を進めていく。
しかし、いつまで経っても川は見えてこない。気が付けば周りはぽっかりとひらけた空間だった。上を見上げると、『河川敷 少年野球場』と鉄柱に書いてあるのが辛うじて読み取れる。川音は近づいているが、虫の鳴き声は遠ざかっていた。もうすぐ側まで近づいてきていた大橋からは、車の走る音がひっきりなしに聞こえてくる。二、三分程に一回電車が走る音が混じる。昼間は子供達が走り回っているだろう場所にたった一人立ち尽くしていることに今度ははっきりと恐怖を感じて、私は徐に自転車の向きを変えた。
帰るか。そう思った時、いきなり空気を劈くような音が響き渡った。音源は少し離れているようで、どうやら土手のランニングコースの方から聞こえてきていた。その音を聞いた瞬間、私の興味は川の水の冷たさよりも何の音かに移った。向きを変えた自転車を走らせる。段々と虫の合唱と煩い音が近づいてきた。
土手の側まで戻ってきた時、音の正体が分かった。
ミンミンゼミだった。夜に聞き慣れない音だったから気が付かなかったのか。ミンミンゼミって夜に鳴くんだな。気になってしまった私は、ポケットからスマートフォンを取り出す。困った時の便利な道具だ。
「ミンミンゼミ 夜鳴く 何故」
単純なキーワードだけ入れて検索をかける。インターネットの検索機能は優秀だ。それだけで色々なサイトがヒットする。
どうやら最近の異常気象とも言われる、夜になっても引かない暑さのせいで、昼間と勘違いしたセミが夜鳴くこともあるそうだ。ついでに、セミが鳴く理由は大まかに求愛と集団形成の為。ふぅん。そこまで読んで私はスマートフォンの電源を落としてポケットに滑らせるようにして入れた。
求愛と集団形成。こんな夜に、他の虫の鳴き声と混ざることもなく、周りを搔き消す音量で鳴いたところでメスも仲間もいないのに。セミの成虫が一週間で死ぬというのは俗説だったらしいが、孤独に体力を削って鳴いたところで結局は意味がない。これじゃまるで、
「死に損ないだな」
何に向けたか分からない言葉は、セミの鳴き声さえも上回る電車の警笛に掻き消された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます