第8話 コーチ歴を積ませて自前の監督

スター選手の兼任監督で失敗し、大物監督の外部招聘(藤本は除く)は断られ、奇をてらって外人監督も失敗、ようやっと気が付いてコーチ、2軍監督を積ませて自前の監督育成を図ったのが安藤充男であった。かれは東京6大学からの初めての選手であった(阪神は地元の関西6大学からは取った)。打撃より守備の人であった。


12年の現役を終えて一軍守備コーチ(1974年 - 1975年)、二軍守備コーチ(1976年)、二軍監督(1977年, 1981年)、一軍守備・走塁コーチ(1978年 - 1980年)を歴任。早くから将来の指導者として期待されており、1982年に満を持して監督に就任。契約は1986年までの5年という、長期的なものであった。

1年目3位であったが首位から4.5ゲーム差で首位争いを演じた。真弓、藤田、掛布、佐野と戦力は充実していて、翌83年は優勝の期待が高まった。もう20年近くも優勝から遠ざかっているのである。ここにバースが加わり、ショートに新人平田が入り、真弓はセカンドに回った。バースは初年度で打率は2割8分であったがホームラン35本、掛布も31本、真弓は首位打者を取りホームラン23本打っている。そこに規定打席不足なれど岡田(18本)もいた。吉田の日本一の予感を感じる数字である。


シーズンが始まると早々に巨人の独走を許し期待を裏切り4位に終わった。翌84年も4位に終わり、一度は「契約通りに翌1985年も指揮を執る」ことが発表されたものの、シーズン末期にはスポーツ各紙が来期の監督人選について一面を飾るようになり、また球団も水面下で次期監督を模索していたことを知った安藤は退団を決意した。退団時に安藤は、マスコミ関係者に「よくも俺を辞めさせたな!」と怒鳴ったという。典型的な新聞による監督辞令であった。


84年のメンバーはロッテからの弘田も加わり(3割)、85年の日本一のメンバーが揃ったのである。いかんせん投手力が弱かった。10勝を挙げたのはリリーフの山本和だけという状態であった。この年、昨年13勝した小林繁の名前がない。小林はシーズン初めに、自分に激励を加えるために15勝出来なければ引退すると公言した。体力も気力も限界にきていたのである。また、上がらない年俸、前年の田淵のトレードに見る球団の体質にも嫌気がさしていたのである。後年、だまし、だましやったら10勝は出来たかも知れない、江川のトレードからの緊張感が切れたと述懐している。小林が残っていてくれていたら、新聞辞令がなくもう1年やっていたら、日本一の監督は安藤であったのかも知れない。エースのメンタルまで気をかけるのが監督の仕事と言えばそれまでだが・・

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