第6話 青い目の監督

日本人監督でダメなら、外人監督があるさぁー、と考えたのではないだろうが、初めての、いや広島のルーツ監督(わずか15試合でやめた)があったから2番目の青い目の監督に世間は驚いた。これを演出したのが球界では「オズの魔法使い」と呼ばれるやり手社長小津正次郎であった。

ドン・ブレイザーは1967年、南海ホークスに入団し3シーズンプレー。野村は、「自分のID野球の源流はブレイーザーにある」と常々語っている。1970年から野村が選手兼任で監督に就任。野村の要請でヘッドコーチに就任する1978年、南海コーチ時代から親交のあった古葉竹識監督率いる広島東洋カープの一軍守備兼ヘッドコーチを務めた。古葉は「ブレイザーの野球を見て本当に勉強になった」と語っている。そんな経歴があって、1979年に阪神タイガースの監督に就任。「考える野球(シンキング・ベースボール)」の采配が期待された。就任1年目の同年は最終的に4位に終わったが、前年の1978年の最下位に比べれば持ち直し、夏のロード明けまで首位争いに加わり、前年より20勝勝ち星を増やした。


ブレイザーがまず打ち出したのが「センターラインの強化」であった。捕手としての田淵に広島時代から限界を見ていた。ショートのレギュラーであった藤田平の動きを見て、ファーストへのコンバートも決定していた。走・攻・守3拍子が揃ったショートの補強を球団に要求。お眼鏡にかなった選手は、クラウンの有望な若手選手である真弓であった。これに手を貸したのが小津である。新生西武ライオンズの球団社長に就任した根本とじっくり話し合い、世紀の大トレードと言われた阪神の田淵幸一、古沢憲司と西武の真弓明信、若菜嘉晴らの交換トレードを成立させた。また、江川の空白の一日事件で獲得した巨人の小林繁などで前年に比べて戦力がアップされたことが大きかった。センターラインの強化はブレイザーの確かな目があってのものであった。田淵は西武でよみがえり、古沢もエースとして活躍した。阪神も真弓、若菜も活躍し大成功のトレードであった。


ドラフトで金星、早稲田の岡田を引き当てた(小津がくじを引いた)、2年目のブレイザーであったが、岡田彰布の起用法を巡ってフロントと軋轢が生じたのである。ブレイザーは、新人はまず二軍で養成すべしと考えていたので、岡田を起用したがらなかった。岡田自身は起用がないことについて表立ってコメントすることはなかったが、大物新人スラッガーをいち早く一軍で活躍させたい小津を中心とするフロント、ファンやマスコミが許さなかった。


ブレイザーがヤクルトスワローズから獲得したヒルトンを成績・特に打撃が不振にもかかわらず守備面を評価して起用し続けたこともそうした声に拍車をかけることになった。結局、ファンから自宅にカミソリ入りの手紙を送りつけられ、夫人が「こんな野蛮な国はイヤ」と帰国を懇請したこと、また球団フロントがヒルトンを退団させた後、ボウクレアを獲得したことを「フロントの現場への介入」と見たこともあって、シーズン途中の5月14日で退任した。広島のルーツもグランドでは監督に全権があるのにと、フロントの介入とのトラブルであった。日米の野球の違いといえばそれまでであったが、双方学ばねばならないことは多かった。


ブレイザーの退任後はヘッド兼打撃コーチの中西太が後任の監督となったが、5位に終わった。ブレイザーは退団後、複数球団から誘いがあり、1981年に古巣・南海の監督に就任した。一年目は5位、二年目は最下位と低迷し心臓病に痛風が重なり辞任した。

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