第5話 選手に殴られた監督

金田の名前は何度も出ている。村山から指揮権を貰った年度が評価されたのか、1973年の監督につく、その年、巨人と最後の試合で優勝が決まるという試合に負けて、怒ったファンがグランドになだれ込んだという事件に記憶がある方(もしくは映像で見た)は多いのではないかと思う。江夏、上田の両輪の活躍が大きく、1ゲーム差の2位の成績は優勝を逃したとはいえ立派であった。 ただ、問題は別のところで発生した。この年5月、金田は投手の権藤正利*に対し、「サルでもタバコを吸うのか?」という暴言を口にした。そしてシーズン終了後の1973年11月、阪神のファン感謝デー終了後に甲子園球場内で権藤から、その暴言に対する謝罪を求められても受け入れなかった為、殴打された事件である。このとき、監督室のドアーの前に立って、誰も入れさせなかったのが江夏だと言われている。 他にもシーズン中の5月にもある投手に殴られるという事件もあり、村山の後輩であった主力の藤井栄治とも合わなかった。シーズン終了後、江夏が「金田監督の下ではプレーができない」と表明して内紛が表面化。12月に「江夏を抱えてのチーム作りに自信がない」と、今度は金田が辞意を表明した。藤井はシーズン終了後にトレードで太平洋クラブライオンズに移籍、権藤は謹慎処分(最終的に自由契約で引退)。例によって戸沢球団代表が両者の意見を聞く形で、最終的に金田は続投、江夏もチームに残ることとなった。翌1974年は前半首位で折り返したものの、最終的には4位に後退し監督を辞任した。 ああー、なんと言ったらいいのか、あの藤村排斥運動の怨念が宿っているとか言いようがない。 *権藤正利、1955年7月から2年後の1957年まで、プロ野球記録の28連敗を記録する。当時の太洋は貧打のチームであったが、これだけ連敗したのに使われたところに権藤の魅力があった。ドロップと呼ばれていた大きく縦に落ちる独特なカーブである。これを武器に15勝12敗で新人王を獲得する。最弱球団をエース秋山とともに支えたのである。胃弱による体質で本当に痩せていた。一時引退も考えたがリリーフになって再生した。太洋で11年、東映1年を経て、この年は全然であったが、阪神でリリーフとして7年貴重な存在であった。性格は温厚であったとされる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る