第4話 熱血青年監督
村山青年兼任監督の誕生には、南海野村の兼任監督の成功と話題にあやかろうという魂胆もあった。兼任村山がまず考えたのが、ヘッドであった。白矢を立てたのが大学時代バッテリーを組んでいた上田利治であった。広島に入団、プレイヤーとしては3年ほどであったがコーチをしていた。彼のヘッドワークは村山の認めるところであった。上田は関係者に相談したがあまりいい意見は聞けなかった。球団はさっさと別にヘッド(OBの藤井勇)を決めていた。上田はその後阪急、日本ハムで20年監督を勤め、阪急では優勝4回で一時代を築いたのであるから、阪神に入らなくて正解と言えたし、逆に言えば、いい監督候補を逃がしたともいえる。
村山の1年目(1970年)、14勝3敗、防御率、0.98、監督として.611 2ゲーム差で2位、川上監督をしてあっぱれと言わしめた。この頃の巨人は長嶋、王を抱え連覇中で本当に強かった。対する阪神は江夏、田淵の黄金バッテリー、藤田平のショートとそれなりに対抗出来た。何より村山の獅子奮迅の戦いが印象に残った。2年目は自身の不振もあって(7勝5敗)5位に終わった。3年目、出だしでつまずき、自らが投手に専念するしかないと指揮権をヘッドだった金田に託した。その年巨人に3ゲーム差で2位。村山も4勝どまりで、腱鞘炎の故障もあってこの年で現役引退。監督の指揮権も帰ってこなかった。現役を引退した村山には魅力がないとばかりに球団は金田を選択したのであった。
日本一になった2回目の吉田のあと、監督(1988年)につくのであるが、バースの22試合目の帰国(子供の頭部手術)掛布の衰えもあって、和田、大野、中野らを少年隊で売り出すも戦力の低下は覆いがたく6位、翌年は5位と花開かなかった。
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