第2話 藤村排斥運動

藤村はタイガースの顔であった。また本人もそれを自負していた。川上や大下がホームランで人気を得ると、物干し竿と言われた長バットでホームランを量産し対抗した。

今日本ハムの大谷が二刀流で話題になっているが元祖二刀流はこの藤村であった。二桁勝ち星、二桁ホームランをなしているのである。


兼任監督になると、打てる投手の時に出場し、逆に打てない投手の時に出ないというケースがあり、それまでも数々のスタンドプレーを快く思わない選手もいた。また、人の好い藤村は、球団の提示する低い年俸を受け入れ、球団はこれを尺度に他の選手の査定をおこなったため、待遇に対する不満が選手の間に生じていた。問題は後者の方であると私は考える。こうした状況を背景に『藤村排斥事件』と呼ばれる騒動がマスコミを巻き込む形で起きたのである。この事件以降、阪神が一種のスキャンダル・メーカーになっていく。スポーツ新聞もこれを助長し、裏話を求める読者へ、スキャンダル報道で答えようとした。藤村排斥事件の報道は、その先駆例だった。スポーツ新聞が急成長するきっかけをつかんだのもこの内紛劇からとされる。


1956年11月上旬、12名の選手とスカウトの青木一三が「藤村監督退陣要求書」を野田誠三オーナーに提出。これをスポーツ新聞が報じる形で明るみに出た。なんでスカウトごときがと思われるだろうが、青木は「マムシの一三」と言われる辣腕のスカウトであり、チームに帯同するマネージャーでもあった。12名は藤村に次ぐ実力派選手の金田正泰につながっていたメンバーと、青木が獲得した若手メンバー(吉田義男・小山正明・三宅秀史)らであった。

会社と対立して選手の処遇が問題となったら、青木一三はパ・リーグ総裁でもあった永田(大映社長)に、「阪神の選手たちをパ・リーグで引き受けてくれるなら私が責任を持ってバラまきます」と「煽動した」と自著に記している。


当時若手選手として「排斥派」に入っていた吉田義男は事件について、「何を球団と藤村さんに要求するのか、若手の私たちはいまひとつ理解できなかった」と回想している。小山正明も「いまはすまんことをしたと思っている。わけもわからずに、排斥グループの中に入って動いとった。何も監督に文句はなかったのに…」と述べている。


青木の言によると選手の待遇改善運動になる。ただそれだけで動く青木であったろうか(やり手であることは後年西鉄ライオンズの後の太平洋ライオンズの社長職を勤めている)・・電鉄、球団上層部の派閥対立の一方に加担したと私は見ている。野田オーナーに直接会うことは監督でも至難の技であった。誰かの引きがあってである。反藤村の感情を持つ金田を利用し、自分がスカウトした若手を巻き込み一劇演じたのである。


今のようなきちっとした査定方式のない時代である。

「これぐらいは欲しいのですが」、「ほほー、藤村の半分も君は活躍してるかねぇー」と言われれば抗弁の仕様がなかったし、プロ入団で最初にお世話になって顔を合わすのがスカウトである。学校出てまもない若手には海千山千の青木の裏など読む力はなかった。


会社側は球団代表を本社東京事務所長であった戸沢一隆に代えて事態の収拾に乗り出した。12月に球団側は藤村監督の留任と、退陣要求に関与した選手のうち金田正泰・真田重蔵の両名とは来季の契約を結ばないことを発表し幕引きを図った。その後、球団代表の戸沢一隆が関係者と交渉を続けた結果、12月25日に球団は金田との再契約を発表。12月30日に戸沢代表・藤村監督・金田がそれぞれ声明書を発表して解決した。


金田・真田の事実上の解雇が報じられたことで、この内紛は広く世間の注目を集めることとなり、リーグ会長の鈴木龍二の要請を受け、巨人の水原茂監督と川上哲治・千葉茂の両選手も仲介役として来阪した。周りを巻き込んだ大騒動であったのである。金田の復帰にはこのような背景がある。

青木は解雇されてパリーグの球団大映に入社した後もスカウトからフロント入りし、幾多の球団を渡り歩いた。


藤村はこの事件の影響で、1956年限りで現役を引退し、1957年から監督に専任することとなった。排斥運動などのイメージで監督としては無能だった、という評価が定着しているが、監督4シーズンで勝率.583という成績を残している。特に1957年は首位巨人と1.0ゲーム差、流感による主力選手の離脱がなければ優勝できたともいわれた。独特の勝負勘を持っていたと言われている。

1957年11月、優勝争いをした後にもかかわらず、球団代表の戸沢一隆から「田中義雄への監督交代と、代打要員としての現役選手への復帰」を告げられる。何とも不可解な監督交代劇であるが、これがまさにタイガースなのである。ある関係者は、前年の排斥事件のペナルティで、シーズン初めからの既定路線ではなかったかと述べている。


現役に戻った藤村であったが、衰えはいかんともしがたく、先発は1試合のみ、7番・ファーストで途中交代。結局26打数3安打、打率1割1分5厘であった。往年の(と言っても兼任監督の時代しか知らないが)精悍な姿はバッターボックスにはなく、見るものを淋しい思いにさせた。生涯打率3割を保つため11月末に引退を表明し、ついにタイガースから完全に離れた。

1950年の毎日への主力選手移籍の折に「出てったもんと、残ったもんと、どっちが勝つかはっきりさせようじゃないか」と語り、日本シリーズに出場することが悲願であったが、その夢は果たされることなくユニホームを脱いだ。プロ野球の興隆期に人気を二分した巨人の川上と比べるとき、勿論本人の資質の違いもあるのだが、余りにもその扱いは酷いと思われてならない。


この後、ミスタータイガースの名前を与えられた者の悲運は続くこととなる。

村山は全盛期の時に藤村と同様、兼任監督になり、選手寿命を縮めた上、選手に専念するという形で、実質指揮権を前出の金田に渡すという屈辱を味わった。田淵は夜中に呼び出され、涙の無念でライオンズにトレードされ、監督になったのはライオンズであった。掛布は自ら起こした交通事故で電鉄首脳から嫌われ、ついにどこの監督にもなれなかった。

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