『哀しきタイガース・監督編』
北風 嵐
第1話 苦悩の始まり
この数字を比較してみよう。
巨人:2リーグになった以降10代監督、なった人7人(うち優勝監督6人)。最近の最短監督は2年の堀内で優勝していない唯一の監督である。水原は10年。川上は実に13年である。途中交代なし。すべて巨人出出身者である。巨人でならなかったが森、広岡のような名監督も輩出している。
一方阪神は、
27代、22人、優勝監督4人、最長監督5年、中村、岡田らで5年である。途中交代6度、阪神も何人か他チームで監督をしているが、他チームでの優勝監督はない。
これを見ても、阪神がいかに監督問題に苦労してきたかが分かる。
原因に3つ挙げられると思う。その1、親会社電鉄、球団フロントの定見のなさ。その2、スター選手を甘やかすことによる内紛問題、それを煽る取り巻きとスポーツ紙。3、人気球団ゆえ、熱烈なファンの辛抱のなさ。
阪神の監督問題には、ある時期まではいつもお家騒動・内紛がついてまわった。体質を変えるべく、西本氏(阪急・近鉄での優勝監督)に何度も懇願したが、そのややこしさを危惧されて、氏は断り続けた。
この問題を語るとき、話はやはりここに帰るしかない。
1949年オフ、大リーグをならって2リーグ制が考えられた。提唱者は読売巨人であった。
一方の経営的な盟主としては毎日新聞を誘い、球団としては阪神でった。最初この案に賛成だった阪神であるが、人気カード巨人・阪神を失うことを嫌って、新リーグ移行を取りやめ1リーグ賛成組についた。その毎日に主力別当を始めとする主力選手をごっそり引き抜かれたのである。
選手だけではなかった。エースで監督である若林忠志までもであった。若林は新しい考え方をする人物で、2リーグ制賛成論者であった。阪神球団の考えと対立して、監督が主導となった引き抜き劇となった。
これに対して、唯一阪神の顔として残ったのがミスタータイガース藤村富美男であった。若林の後を継いだのが人望のあった松木謙一郎であった。ごっそり抜けた戦力でもって巨人に対抗し、5年間常にAクラスであった。その松木が中日戦での没収試合の責任を取る形でシーズン終了後に退任したのである。審判判定を巡って藤村が手を出した。藤村は連続出場記録を持っていた。それをカバーすべく松木が審判に暴行を加えたのである。松木は監督が退場になれば藤村は退場にならないと考えたのである。これに観客がグランドになだれ込み、合は混乱し没収試合になったのである。結局二人は退場処分のとなった。
この後、藤村が監督になっていればなんの問題もなかった。藤村は戦後すぐの昭和21年、戦争帰りの身体で兼任監督を勤めているのである。戦前監督であった若林の監督就任は藤村のたっての頼みであった。
後任の監督になったのが、プロ野球に属した経験もなく、名前の知れていない旧制の兵庫県立神戸高等商業学校の監督でしかなかった、岸一郎(早稲田・満鉄でエース)であった。この岸が当時新人であった投手では大崎、小山、野手では田宮、三宅らの若手重視の考えで藤村らを筆頭とするベテラン選手と対立した。成績もよくなく30試合を過ぎた時点で休養させられた。なぜこのような人事になったかと言うと、電鉄社主でもある野田オーナーが運輸省に出向いたおり、監督を探していると述べて、岸を紹介され断り切れなくなったと言われている。途中休養の第1号であった。
私は岸の名前も知らなかったし、顔も知らない。ナイターがTV放送されるようになって見たのが、兼任監督になった藤村であった。「代打オレ」と言って、逆転満塁サヨナラホームランは話題となった。
岸がシーズン中に更迭されると藤村が代理監督に就任、翌年からは正式な兼任監督となった。そして起きたのが前代未聞の監督排斥運動であった。
*若林は戦前のエースで優勝監督であった。戦後会社を経営していたが、戦争帰りの身体でタイガースの再興に頑張っている藤村の姿に動かされたのである。毎日に移る当時40を越していたが前年に15勝を挙げている。日系2世であった。
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