灯 ~素敵なその名を~

 東京は寒い。住み着いてもう一〇年になるけど、この寒さには慣れない。

 地元にもきっちり一〇年帰っていない。

 あそこは嫌いだ。でもここも嫌いだ。


 地元は田舎で、いや『ド』田舎で、高校生の私はテレビで観る都会の雰囲気にひどく憧れた。

 だから必死に勉強して、勉強して勉強して勉強して、大学は県立に入学した。結局。

 東京には出してもらえなかったのだ。


『あんたぁ、記念受験じゅげんじゃながったのかぃ』


 両親は東京の志望校から合格通知が届いて満足げな顔をしたのに、いざ入学手続きの段階になると両目をひんむいてそう言った。


だぃがこんなど田舎がらわざわざ東京くんだりまで”受験の記念に受験”しに行ぐもんかね!』


 私は兄弟親戚学校の先生をも巻き込んで、必死に両親を説得し続けた。

 けれどついぞ彼らが首を縦に振ることは無かった。

 それが何だか挫折のようで、悔しかった。


『私にはもっと早くからここに居て良い資格があったのに』


 そう思うと大学時分からここに住んでいる人たちが、ひいてはその前からここに住みつく人たちがひどく憎らしく思えた。

 だからつい、東京の大学出身の後輩にはきつく当たってしまう。それを上司から咎められてもいたし、もちろん自分だって良い事だとは思っていない。

 でも私の中の仄暗い部分が、薄汚い部分がその子たちを許しはしなかった。

 お金にも、周囲の理解にも恵まれた子たちだと勝手に決めつけて。

 その子たちの事をよく知りもしないで。

 そもそも許す権利など私には無いのにも関わらず。

 勝手に断罪しては優位に立ったような気持ちでいた。

 私は一〇年前もこの私だったろうか。


 もう疲れた。

 東京を嫌うことも、そこに自分より長く住む人を憎むことも。

 でも何より一番疲れているのは、自分の地元を嫌うことだ。

 一〇年。十歳だった子供が、成人を迎えるだけの年月。

 それだけの年月を、私は東京と地元を憎むことに費やした。

 あれだけ憧れ食らいつきたかった東京という場所は、もう何の魅力もない。

 東京のここが嫌いあそこが嫌いとどれだけあげつらっても、結局何が言いたいって、地元と違うから嫌いなのだ。


 よくある話だ。

 東京はうるさい、きたない、せわしない。知っている人などいないし知っている場所もない。

 当たり前ではないか。

 どれだけの人間がここに生きていると思っていたのか。

 四捨五入して一四,〇〇〇,〇〇〇人だ。いっせんよんひゃくまんにん。

 この十年でそれを理解せず受け入れようともせず、むしろ排除しようとしてきた。

 そんな私をなぜ東京が受け入れてくれるというのか。


 かと言って今さら大手を振って地元には帰れない。

 大学進学の時も就職のときも、さんざっぱら憎まれ口を叩いて出てきたのだ。

 実家からの電話だってしっかり一〇年無視している。親族のうち数人はもう亡くなっているはずだ。その連絡だったかもしれない電話も、全部きれいに無かった事にしてきた。

 掲げられるような錦の御旗も持っていないし、帰ったところで今度は反対に憎まれ口を聞かされ続けるに違いないのだ。


「お姉さん名前なめぇは?」


目の前のオジサンは如何にも江戸っ子らしい、べらんめえ口調で唐突に訊いた。


 今私は、私のお金で私の為に酒を飲み私の為に独りちているだけなんです。特段誰かに聞いてほしかった訳でも、ましてやお説教されたいわけでもありません。


「いいから、名前は」


 語気が荒いなぁ。これだから江戸っ子は。ひとの話なんて聞いちゃいない。とにかく自分のことばっかり。


私をじっと見つめるオジサンの目は、表面には灰色に曇って見えた。加齢とともに下がった瞼が虹彩に差し込む光を減らしている。けれど、その奥には強い光が見えた気がした。


 灯。


「そうかい。どんな字ぃ書くんだぃ」


 灯台の、灯。誰にでも分かりやすい字です。電話口の説明でも困ったことはありません。


「わりぃねえ、おっちゃん学がねぇからよぉ。パッと思いつかねぇんだわ」


オジサンはそう言ってチラシを手のひらサイズに切ったものと、すっかり芯の丸くなった鉛筆を差し出した。


 書けってことですか。


「わりぃね」


そう言ってはいるものの、全く悪びれた様子なんてない。左頬の口角だけが上がって憎たらしい。


 ここと一緒だ。オジサンは東京そのものです。


丸い芯を小さなチラシの裏に叩きつけるようにして『灯』と書いた。


 小さな四角の中の無様な灯。私と一緒だ。これは正しく私そのものですよ。


「ほぉー、明かりが灯ると書いて、アカリかぃ」


 さっきそう説明したじゃないですか。


学が無いから書いてくれって、書いたところで分かるんだったら充分に学を持ち合わせている。


「良い名前じゃねぇの。明かりが灯るでアカリねぇ。で、あんたは本当にこの文字と同じだってぇのかい」


 何が言いたいんですか。中も外も一〇年ですっかり薄汚れて、名前の素朴さや可愛らしさなんて無いとでも言いたいんですか。その字には分不相応だと言いたいんですか。そんなことは言われなくても十二分に分かっているし、毎日痛感しています。


「まぁまぁまぁ。アカリさんよぉ。この字の意味知ってっかい?」


 意味? 明かりが灯る、それだけです。


「違うんだなぁ、これが。良いかぃ、この灯すって字にはね、周りを照らすってぇ意味もあんだよ」


 漢字辞典にはそんなことは載っていない。拡大解釈もいいところです。


「名前なんてもんはよぉ、親が十月とつきかけて考えて、産まれた子の顔を見てどんな人間になって欲しいかって決めるもんだ。そこに拡大解釈無しでどう決めろってんだい」

「親御さんはアカリさん、あんたに周りを照らしてほしい、明るい子になって欲しいって思ったんだろうよ。でもなぁ、じゃあ何で明るいって字にしなかったんだぃ」


 そんなこと、私の知ったことじゃない。オジサンにも分からないでしょう。


「そうよ、わかんねぇのよ。でもな、オジサンが学のねぇ頭で考える限りよ。この字には、まず自分で自分を照らしていける子になって欲しいって親御さんの気持ちが入ってると思うわけよ。なんてったって灯って字にゃあ、松明だとか神様にささげる火って意味もあんだから」

「でも周りを照らすにゃまず自分に火が灯らねぇと。自分で自分に火を灯して明るくしねぇといけねえわけよ。じゃねぇと神さんだって何お供えされてんだか見えもしねぇ」


 でも結局なんと言おうと私の名前はその字なんです。決して明るい性格じゃない。相応しくないことに変わりはないんです。


「そう! そこよ! 良いかい、字と文字。これもまぁ似たようでちげぇもんなんだな。字っつぅのはその漢字そのものを表してんだぃ」

「でもね文字つうのはよ、その字の形。書かれた形を表してんのよ。そこでだアカリさん。アカリさんはここに書かれた文字、あんたぁ本当にこの文字と自分が同じだと思うかい」


チラシで作られた小さな四角。その中に、丸まった鉛筆で書かれた無様な一文字。

その文字をオジサンはとんとんと指で叩いた。

私が叩かれたようには感じなかった。


「オジサンはねアカリさん。あんたとこの文字たぁ全くの別物だと思うね。あんたはこんなにひしゃげちゃいないし格好悪くもねぇよ。人間らしい生き方じゃあねえか。誰かを憎んじゃいけない、妬んじゃいけないなんて言われたってよぉ、人間そう上手くはできてねぇのよ。学校ではそう習うのかもしんねぇけどね、だーれも憎まず妬まず生きる事なんてできやしねぇのよ」

「四角の中から出られねぇ、出ちゃいけねえってこともねえの。この文字と違って、アカリさんには出ていける頭も足も付いてんだから。行ける場所なんていーっぱいあるでしょうよ。それにねアカリさん。あんたはこの文字ほど丸くもねぇよ?」


オジサンはそう喋るだけ喋って、やっぱり意地悪気に笑った。左の口角だけが上がっている。

東京は嫌いだ。でも地元も嫌いだ。そう思って一〇年生きてきた。


「良い名前じゃあねぇの」


オジサンはまるで小さな子どもの頭をそうするかのように、私の頭をがしがしと撫でた。

その口角は上がっていたけれど、今度は右左両方ともしっかりと上がっていた。

それは意地悪気には見えなくて、ここは案外良いところなのかもしれない、なんて思わされてしまいそうだった。


オジサンは意地悪気じゃない笑い顔のまま、カウンターの向こうで鼻歌を歌いながら洗い物をしている。

随分前に熱燗で頼んだ一〇本目の日本酒は、半分ほどを残してすっかり冷めてしまっていた。

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