交差する人々

綾上すみ



悪意に形はないけれど、悪意になりえる人の意志はどこにでも転がっている。

 僕はそれに身構えることができないで毎日を過ごす。どこで出会うか分からない恐れ、それがいたるところにあるせいで、そのすべてに気を張って生きるのは、辛い。だからやめたのだ。考えることをやめると、すっきりする。僕の心は、ぼんやりとしながら、中空を漂っているときが一番平穏だ。意識が僕のうちにあるときは最悪だ。ほぼ直接的に、他人の悪意を受け取ってしまうから。

 僕は今日も電車に揺られて職場に赴く。電車の中で、小さな赤ん坊が泣きわめいているのが耳に障った。僕はそちらに目線をやる。必死に赤ん坊をあやす母親らしき人物に、目線をやる。赤ん坊が泣きやむ気配はなく、次の停車駅のアナウンスが流れると、彼女は赤ん坊を抱いたまま立ち上がった。電車を降りる選択をしたようだった。

 電車の扉が開く。母親は僕に、はっきりとこう言った。

「そんなに責めなくていいのに……」


 2


 この世に生を受けて二十六年、私はある程度不自由なく生きてきた。

両親が交通事故で死んだとき、後を追おうと思った。私の暮らしが、奪われてしまうから。大学卒業後働かずバイトもせず、ずっと家でのんびりくつろいで、趣味の読書を続ける暮らしが、危機に瀕していた。

 近くの家に住む伯父が面倒を見に来ることになった。彼は働かない私をよく思っていない。古いベッドから身を起こす気力もなく、欝々とした気分に身を投じっぱなしだった。

 数日して、親戚と一緒に散らかった部屋の掃除をした。ピンクのノートが出てきて、ふと手が止まる。

『ほんとうは私、お姫様になりたかった。

 毎日かわいいドレスを着て、十四歳でお母さんと一緒におしゃれなカフェへ行って、その後かっこいい男の子と社交ダンスを踊りたかった。天蓋付きのベッドで、ふわふわのお人形さんたちと一緒にぐっすり眠って、メイドの一声で起きる。そうして窓の外からの日差しを、体いっぱいにうんと浴びたかった――それって、贅沢だよね。夢が叶ったら普通になりたい。働いて、まっとうに稼いで、自立する。私は強く生きていく。』

 妄想の限りを尽くした文章が綴られていた。いつ書いたか分からない、英国趣味入りの落書きを、私は懐かしみながら読んだ。

 ――夢は叶っていた。私はお姫様ではないけれど、メイドもいないけれど。でも、夢は。私はお姫様だった。今度はせめて、社会の一員になりたい。


 3


 オールをこぎ、基地まで帰してくれるのはポールだった。おれはその剛毅な腕の筋肉が、収縮を、弛緩を繰り返すさまをぼんやり見ていた。濁った河を二人乗りのボートは揺れながら進む。流木や枯れ木がボートの底面をこする音が、いやにうるさく聞こえる。

「乗り上げないように気を配ってくれ」

 おれにはそんな余裕はなかった。かつてはそうしたはずだ。慣れていたはずだ。

終ぞ人を殺せなかった、震える手を見つめる……この手に生き死にを託してくれたウィリアムズ、エヴァン、ノエルの顔がちらつく。震える手にその霊の重みがかかるように、思い通り動かなかった。大過を犯した罪人の手にしか見えず、おれはこの手を切り落としたい。この茶色く濁った大河の渦に、全て投げ捨てたい。

「よく帰ってきてくれた」

 上長が眉を峻厳にひそめたまま、おれにいった。おれを断罪してくれる信頼性の高い人物に、ねぎらいの言葉を駆けられた事実が、辛く肩にのしかかる。

 おれは少年のころから銃を持って、戦地を駆け巡っていた。沢山の大人を殺した。

いざ、敵の少年兵を殺す段になり、一瞬のためらいがうまれた。 

おれが引き金(trigger)を引けなかったことが、全てのきっかけ(trigger)となった。俺の目の前で、全ての友が死んだ。死体は大河を漂っている……。

「休んでいいぞ」

 もう、軍人など務まらないだろう。そうして働けるもとは、自分にあるだろうか。それが卑近な考えに思え、もうおれは何を考えていいのか分からない。きっとこの先も。


 4


 旅の間に読んだ本を手繰ると、昔見た景色が脳裏に鮮明によみがえる。

 一人旅が好きだった。というより、一人で悩む時間が好きであるため、旅というある種の拘束がしっくりくるのだ。CDプレーヤーで静かな音楽をかけて、のろのろ鈍行列車の中で考えを巡らす時間は至福だった。

 学生の時分のことだ。

小説本など開くと、その中の情景と、車窓から見える景色はまるで違うのに、不思議とそれから同じ感慨を覚える。脳内で混淆した景色の重奏が、脳を刺激する精神的高揚がまやかしで独りよがりだとしてもよい。

 そうして貴方に出会った。

「旅の間にしか読めない本ってありますよね」

 山間に糸を通すような路線で、一人の時間を邪魔されたことが、不思議と嫌ではなかった。このとき、貴方の声の響きは見事に光景に溶け込んでいたように思う。

「なんという本ですか」

 私が通俗小説の名をあげると、彼女は笑顔を作りながらその作家の良さを述べていった。俗っぽい話をしていたのだが、貴方の滑らかに動く薄唇はすでに、私の中で美しい結晶として根付いたに違いなかった。貴方の住所を尋ね、必ず手紙を書く、そう約束して別れた。


 再読した本――老眼が進んだせいで、なかなか難儀したのだが、それを徹夜で読み終え、私は隣のベッドに眠る貴方の寝姿――いびきをかき、よだれの筋がひとつ見える――視線を移す。ふとそう言ったことを思い出した、それだけの話なのだ。

 貴方の唇にそっと触れると、瑞々しい跳ね返りが、指に残った。たまらず私は口づけをしたのだけれど、そのとき貴方は目を覚ましていた。

「貴方だけ、ずるい」

 ああ、私の幸せが、二人の幸せであること。そのことに気づかせてくれた、貴方。


 5


平成最後の夏、いいな、と思う人がいる。

今日は飲み会だった。酔った振りをしてアプローチをかけてみたけれど、ちょっと歳が離れすぎていて、相手の眼中にはないだろう。

そんな諦めが、きっと見透かされていたに決まっている。

誰もいない1DKのアパートで、音楽プレーヤーから発する悲しい音楽と、負の感情が調和していく。

平成元年生まれの免許証。古いJPOPのフォルダが束になっている、MP3ファイル。フェイスマスクだらけのゴミ箱、タンスの奥にあるはずの、長く着ていない刺激的な下着、全部全部、私を責めさいなむ。

婚活をしていないわけではない。いくつか相談所に登録しているし、ウェブも活用している。しかしそこでは、私に価値はないことを何度も思い知らされる。

悩みがすとん、と胸の奥にまでとげを刺してくる。私はそれを、悲しい音楽と涙で紛らわせる夜をすごす。

スマホが震えてLINEが来たけれど、相手など限られている。どうせまた両親から、何か小言を言われるのだろう、と思っていたら、違った。

お目当ての、彼からのLINE。

『今日はお疲れ様でした。無理をしていませんでしたか? 悩み、あれば聞きます。あなたと二人で遊びたいです。また今度行きましょう』

胸が高鳴り、同時に、どうして私なんかが、などと考える。すぐにその考えを取り払う、彼が求めてくれるのであれば、失礼な話だ。

そこで、脳はスパークした。私の価値を決めていたのは、私自身。どうしようもない平凡以下な女に自分を仕立て上げていたのは、私自身かもしれない。

では、私は生まれ変われるのだろうか。それとももう一度生まれたいだろうか。

いや、違う。急に笑いがこみ上げる。ふふ、私だって、これまでがんばってきた自分を捨てたくはないわ。

もう一度。好きな人と遊べて浮かれている、そんな状態から、一歩抜け出したい。マンションの一室にはびこる答えの出ない悩みを、保留して。

まずは飲み会の件を謝りたい。今度は楽しく、彼と遊びに出かけよう。

どうやったら、かわいく見てもらえるかな。久しく行っていない、若者向けのブティックに出かけようか。長年培ったお化粧のテクを披露するときがきた。

あとは震える指でLINEに返信するだけだった。

『誘ってくれてありがとう。是非、二人で。』

もう一件。

『私の悩みはーー』

平成最後の夏が終わる。節目であるからというわけではないけれど、そろそろ納得いく私自身でいようと思う。

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交差する人々 綾上すみ @ayagamisumi

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