巻の玖 瑛孝寺勝智 ────大正
最初に思い出すのは、優しいその笑顔。
まだ幼い僕の頭を撫でる柔らかな手つき。
とても愛しい記憶を、僕は一生忘れない。
事の始まりはおよそ十年前。姉は十歳で、僕は五歳。海外の祭り──
「お姉ちゃんっ!」
僕は姉に飛びついた。ぐりぐりと頭を押しつけると、姉は仕方がないと笑いながら頭を撫でてくれた。
艶やかな長い黒髪が風に揺れる。少し寒い日だった。
姉は赤い毛糸で編まれた肩掛けを羽織っていて、その温もりが僕も温めていた。
だけれど僕は、それも姉の温もりであると感じていたし、実際そうだったのだろう。
「どうしたの、
姉がしゃがんで問いかける。冷え切った僕の頬に姉の手が触れた。温かくて、思わず手に顔を擦りつける。
「あそぼ!」
「……ごめんね、今日はだめなの」
「なんで?」
今にも泣き出しそうな僕に、姉は困った顔をする。どう説明すればいいのか、あるいは慰めていいのか分からない様子だった。
「勝智。お姉様を困らせるのは止めなさい」
「お母様」
姉は僕から離れると、姿勢を正した。母は厳しい人だから、とにかく利口にしなければいけなかったのだ。
髪を夜会巻きにした着物姿の母は、少し眉を吊り上げて僕に注意する。
「お姉様は今日、お友達のパーティーに出席するのです。遊ぶのは明日にしなさい」
「ほんと?」
「そうなの」
姉はそう答えて苦笑いした。
「ぼくも行く!」
「勝智。今日は、書道のお稽古の日ですよ。貴方は
「やだ!」
「勝智!」
「やーだー!!」
駄々をこねる僕に、姉は再び目線を合わせ左手の小指を出した。
「明日はたくさん遊んであげるから、今日はお稽古頑張ってね。お姉ちゃんと約束しよ」
「貴女も貴女ですよ。あまり甘やかさないでくださいな」
「いいじゃないですか、お母様。勝智はまだ五つですよ。まだまだ遊び盛りなのだから、仕方がありません」
姉の言い分も一理あると思ったのか、母は渋々といった様子で頷いた。
「……いいでしょう。その代わり、今日一日は真面目に取り組んでもらいますよ。分かりましたね、勝智?」
「はい!」
僕は母に返事をすると、姉の小指に自分の小指を絡ませて指切りをした。
『ゆーびきーりげーんまーん……』
「では、行ってきます」
指切りを終えると、姉はこちらに手を振りながら護衛と出かけていった。
僕は帰ってきたら姉からパーティーの話を聞こうと思っていた。
来年こそは、僕も連れて行ってほしいな。そんな事を考えていた。
それが、姉を見た最後の日だった。
夜。門限は既に過ぎているのに、どれだけ待っても姉は帰ってこなかった。家はにわかに騒がしくなっていた。
子守り役が無理やり僕を寝かしつけようとしたが、僕は中々眠れなかった。姉を待っていたかったからだ。
それでも眠気に負けて眠ってしまった。
次の日も姉は帰ってこなかった。
母はあちこちを行ったり来たりしていた。父はいつも通り仕事でいなかった。使用人の中には泣いている人もいた。
「お母様、どうしたの? ……お姉ちゃんはどこ?」
そう聞くと、母は黙って僕を抱きしめた。母の体は僅かに震えていた。
僕には、何があったのか分からなかった。
姉が消えてから、およそ一か月が経った。姉がいないまま年を越し、姉の代わりに新年がやってきた。
そんなある日、姉の部屋に行くと文字通り全てがなくなっていた。
壁紙さえ剥がされ、何も無いがらんどうの部屋と化していた。
「お母様! お母様っ!!」
僕は母を探すと、その足元に縋った。黒地に菊の花の模様をあしらった着物が、僕の涙で濡れていく。
「お姉ちゃんのお部屋に、何もないよ!? ねえ、どうして!?」
悲鳴に近い僕の声を聞いて母は僕を見た。僕ははっとした。そこに、いつも綺麗な化粧をして凛と立つ母の姿はなかった。涙と隈で酷くやつれた顔が、そこにはあった。
「……勝智、いいですか? 今から言う事をよく聞きなさい。貴方はこの瑛孝寺家の唯一の子供にして、跡継ぎです。今日から貴方はそのように生き、振舞うのです」
母は僕を強く抱きしめると、呪いのようにそう繰り返した。
「……お姉ちゃん、は?」
「もう貴方に姉はいません。ええ、最初からいなかったのです。貴方が、貴方だけが私の愛しい子供……。どうか、貴方だけはいなくならないで……」
もう、どちらが縋りついているのか分からなくなっていた。
その日からは、『僕の姉』は消えた。
親も、使用人も、町人達や姉の親友まで、姉の話はしなくなっていた。
一回父に尋ねてみたものの、「瑛孝寺家の長男がそんな事に拘るな」と平手打ちされただけで終わった。
……父はいつもそうだった。あの人は家族より仕事を大事にしていたから。僕は、ああいう人にだけはなりたくないと思った。
僕は、次第に周りの人間に姉の事を尋ねるのを避けるようになった。
代わりに、町の外から来た人間──商人や旅人に尋ね始めたのだ。
もしも姉が養子に出されていれば。もしくは別の理由でもいい、せめて生きてさえいてくれれば。この狭い島国を旅する人々の中の一人くらいは、姉を知っている人がいるかもしれない。
そんな何の根拠も無い希望だけを支えに、僕は生きていく事にした。
しかし物事がそう上手く行くはずもなく。姉を知っている人は一人もいなかった。
そこまで行くと、普通の人なら幼い頃の幻だったのでは、と思い始めるかもしれない。
でも、僕にはたった一つの姉との繋がり、そして唯一姉が存在していたという確かな証を持っていた。
写真だ。夏に、家の庭で撮った写真。笑顔の姉と、僕が写っている。
姉のいる写真が全て燃やされた中、使用人の一人がこれだけは隠してくれていた。
今となっては、この写真だけが僕と姉の形に残った思い出だ。
例え時が経ってボロボロになったとしてもこれだけは手放さない。
話は戻って今。十五歳となった僕は新たな旅人に出会った。
その人が纏う不思議な気配……オーラ? みたいなものに惹かれて、僕は彼のいる喫茶店に入った。
話してみると、僕の抱いた印象は間違っていなかった。錬金術師を志す彼は、
彼の話は他の人達とは結構変わっていて、そのどれもが興味深く、楽しかった。
もしかしたら、彼ならば──そんな、何回抱いたか分からない期待を胸に、僕は灯台で彼に姉の事を聞いた。
「もう少し、写真を見てもいいですか?」
「はい。いくらでも」
彼に写真を渡す。彼はじっと写真を見つめながら「うーん」と唸っていたが、やがて何か思い当たったらしい。
「もしかしたら、貴方の姉と会った事があるかもしれません」
「本当ですか!?」
僕は思わず彼の肩を揺さぶった。まさか、本当に
「落ち着いて、落ち着いて」
ずれかけた眼鏡を抑えながら言う彼の言葉に落ち着きを取り戻し、頭を下げる。
「あっ……すみません! つい……。でも、本当に会った事があるんですか?」
そう尋ねると、彼は少し困ったように眉を下げた。
「断言は出来ませんが。いつか何処かで見た気がするんです」
あやふやな言葉だったけれど、僕にはそれで充分だった。
「ありがとうございます……! 希望が湧いてきました!」
本当に嬉しかった。いつか、何処かで姉に会えるかもしれない──その可能性が、少しでも生まれた事が。
出会えて良かった。本当にそう思った。
次の日、上機嫌のまま学校に行くと、友達の一人が僕に近付いて言った。
「なあ、勝智。お前って妹いたりすんの?」
「妹? いないけど……」
「なーんだ。やっぱり見間違えかあ……」
「ちょっと待ってくれ、何でそんな事を?」
腕を掴んで問い質すと、友達はやや驚いた顔をしながら教えてくれた。
「さっき、道すがらお前にそっくりな女の子を見たんだよ。短い黒髪のな。茶髪で眼鏡の人と一緒にいた。旅人なのかもな……。次の町に行くって言ってたから」
僕は息を飲んだ。まさか──
「あっおい、どこ行くんだよ勝智!!」
そのまま駆け出さずにはいられなかった。
何で教えてくれなかったんだろう。あの人はずっと一緒に旅をしていたんじゃないか。
ああでも、やっと会える。間違いない。
きっとその人は、彼と旅をする白咲立華という女性は、その人こそが……僕の、姉だ。
人目も気にせず町を走る。マントは邪魔になって道に投げ捨てた。
早く、速く、町を出てしまう前に。
「いた……!」
見慣れた後ろ姿と、彼に寄り添う黒い後ろ姿。それを追い越して、彼らの目の前に立ちはだかった。
「待ってくださいっ!!」
「勝智君、どうして……」
驚きで目を見開く明哉さん。その隣にいる人は、彼女は──無表情だった。黒い髪と、ぞっとするくらい綺麗な赤い瞳。背は僕より低く、顔も僕より幼く見える。
でも、絶対に間違いない。あの頃から何もかも変わってしまっているけれど、それでも分かる。
「姉さん! 僕はずっと信じていました! 貴女は絶対に生きているって、確かに存在しているんだって……! やっと、会え──」
「貴方、誰?」
感激した僕に冷や水をかけるように、彼女はそう言い放った。
「……………………え?」
思わず、呆然とする。
「私に弟はいない。人違いよ」
淡々と、冷静に彼女は告げる。どうして、そんな……
「嘘だ! だってほら、写真だって」
震える手で唯一の証拠である写真を出す。
見ればきっと思い出してくれるはずだ。
そんな僕の期待とは裏腹に、彼女は写真を一瞥する事もなく破いてしまった。
「あ、ああっ! なん、なんで」
慌てて破片を掻き集めようとしたけれど、春一番に飛ばされて消えてしまった。
立つ気力さえ失って、そのまま座り込む。
「いい加減にしなさい」
容赦ない言葉が突き刺さる。
そこには、あの優しい姉はいなかった。
「どうして、なんで、ねえさん」
繰り返しそう呟く。彼女は僕に近付くと、真っ直ぐ目を見据えてこう言った。
「貴方には、未来がある。いつまでも過去に囚われては駄目。しっかりしなさい、勝智。貴方は瑛孝寺の跡取りなのだから」
「…………!!」
その言葉には、熱がこもっていた。厳しくても、血が通っていた。その誇り高い姿は、確かに瑛孝寺家の人だった。
「……行きましょう、
彼女は明哉さんを連れて先に進み始めた。
何か、何か言うんだ。一言でいい、せめて何か、彼女を呼び止める言葉を──
「おねえちゃんっ!!」
彼女が歩みを止める。
言いたい事があるんだ。本当に、いっぱいあるんだ。でもそれは言葉にならず、ただ涙となって零れていった。
結局、彼女は行ってしまった。多分、もう二度とこの町に戻らないし、会う事もないのだろう。でも、
『貴方には、未来がある。いつまでも過去に囚われては駄目。しっかりしなさい、勝智。貴方は瑛孝寺の跡取りなのだから』
言葉だけは、貰ったから。僕もいい加減、前に進まないと。あの人の弟して、恥じない生き方をしよう。
きっとそれが、それだけが……僕達の絆を証明する、たった一つの証なのだから。
続く
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