巻の捌 伊久磨 ────天保

 ……腹が、減った。毎日そう考えていた。腹が減った。腹が減った。腹が減った。

 毎日、何時まで経っても腹が減っていた。まァそうだろうよ。俺は、ロクに飯も食ってねぇンだから。

 なんだ、あの頃は誰かがあちこちで飢饉が起こってるって言ってたな。

 だが、それが原因じゃねェ。俺の住んでた村は無事だったからな。


 俺が腹を空かしていた理由は一つ。常人の食う飯が食えなかったからだ。

 米が食えねェ。魚が食えねェ。野菜が食えねェ。肉すら食えねェ。別に好き嫌いしてた訳じゃねェぜ?

 体が受け付けなかったのさ。食べた端から吐いちまう。だから飢えを凌ぐには水を飲むしかなかった。

 水ばっか飲んでたから、腹は膨らんでんのに背はチビで、おまけにガリガリに痩せててそりゃまァ無様な姿だった。


 村の連中はおろか、両親ですら俺を薄気味悪がった。母ちゃんなんか、俺が赤ン坊の頃に乳首を食い千切られたっつって、殴ったり蹴ったりしてたからなァ。ったく、赤ン坊の頃の事なんざ知るかよ。


 俺はいつも惨めで、汚くて、悔しくて……いつか見返してやろうと思っていた。

 いや、「見返してやる」はねェな。例えンなら……そうだ、「食ってやる」だ。


 どんなドン底にいても、人間って言うのは中々良心とやらを捨てられねェらしい。

 俺は、自分が一体何を食えるのか分かっていて、あえてをどうにか食わねェようにしていた。


 何かって? 決まってンだろ、人間だよ。


 ああそうだ。俺はずっと、産まれた時から人間を食いたいと思っていた。

 そんな性根をしてりゃあ、母ちゃんの乳首くらいは噛み切るわな。知らねェけど。


 とにかく、俺は意地でも人間を食っちまわねェように、家の隅っこに丸まって暮らしていた。

 家から出るのは、井戸から水を汲んで飲む時くらいだ。それも、誰かがいたら使わせてもらえねェ。

 すぐ「どっか行け」と蹴り飛ばされるのがオチだからな。


 そんな生活に、俺はだんだん我慢しているのが馬鹿馬鹿しくなった。

 俺はこんなにも耐え忍んでいるのに、村の連中も親も意にも介さねェ。

 俺を見て蔑むか笑うか暴力を振るか、それくらいしかしねェ奴らに何を遠慮する必要がある?


 十の頃、とうとうそれは爆発した。あれはそう、夏だ。とても暑かった。

 あまりの暑さに頭がぼおっとして、自分で水も取りに行けねェほど身体がだるかった。死ぬ、と思った。

 このままだと、死ぬ。それが餓死なのか、それとも別の理由かは分からねェ。

 とにかく、何かしないと死んじまう。


 それだけは嫌だ。生まれてから何も良い事なんざなかった。

 せめて一回くらいは、腹いっぱいになってから死にてェ。

 そう思ってる時に、母ちゃんが水汲みから戻ってきた。虚ろな目をした俺を見ると、眉を顰めて水を一杯ぶっかけた。


「だらしねェ面だね、お前は。全く、こんなのを産むんじゃなかったよ」


 それを聞いて、ぶつりと何かが切れた。

 だけど何も出来やしねェ。なんたって腹が空いて動けねェからな。

 でも、何も無いはずの腹の中はぐらぐらと沸き立ち、噛み締めた唇からは血が出てた。

 殺してやる。何があっても、俺が死んだとしても! そう思った。

 だがそれは今じゃねェ。夜にしようと俺は考えた。痩せっぽちのガキが大人に勝てる訳ねェからな。

 俺は耐えた。空腹と怒りに。しんどかったはずの体は、今すぐ動けそうなくらいに軽くなっていた。


 そして、待ちに待った夜。俺はくりやに行くと包丁を手に取った。

 切れ味が悪そうだったので、軽く研いだ。月に照らされて刃が輝く。

 ……準備は整った。


 俺は足音を殺して、寝てる母ちゃんの傍に立つ。父ちゃんは酒呑みに行ったのか、寝床にはいなかった。とても好都合だ。


 悲鳴を抑えるために、口を強く手で塞ぐ。伸びっぱなしの爪が肌に食い込んだからか、母ちゃんが目を覚ました。

 驚きに目を見開いた後、俺に暴力を振るう時の目付きになる。その目がとても嫌で、俺は首に包丁を突き刺した。


「グエッ」


 潰れたような声と同時に、首から血が噴き出す。その血が口の中に入った。


「……美味い」


 俺は首に噛みついて、一滴も残さないように血を啜った。母ちゃんは一瞬だけビクッと震えたが、それっきり動かなかった。


 いくら喉を動かしても血は止まらない。

 溺れそうにながらも、俺は必死に全部飲み干した。

 腕で口を拭うと血がべったり付いた。それも舐めとる。


「美味い」


 いつも飲んでる水がクソ以下に思えた。

 人間の中に流れている液体が、こんなにも美味ェものだったなんて!

 血だけでこんなに美味ェのなら、肉はどうだろうか?

 好奇心が抑えきれず、俺は母ちゃんの身体から退いた。


 胸の下辺りに包丁を刺し、そのまま股までぐいっと走らせて開く。そこには、ぐるぐるしたものやら袋のようなものやら、変わったものがたくさん入っていた。

 あン時は臓物なんか全く知らなかったからなァ。首を傾げながら、そこに口を付けた。次の瞬間、頭が真っ白になった。

 必死に、それこそ狗みてェに貪った。

 「美味い」と口に出す時間すら惜しい。


 なんだって俺はこんなに美味いもんを前にして我慢していたんだか。人間はこんなにも美味ェのに!!


 満足して顔を上げると、何かが割れる音がした。振り返ると、そこには酒の入った甕を落とした父ちゃんがいた。

 月明かりに照らされ、俺が何をしたのか、女房がどんな目にあったのか知ったらしい。


「お前……ッ!!」


 殴りかかろうとして、一瞬躊躇ったみたいだった。だろうな、血塗れの子供ほど不気味なモノもねェだろう。

 だが、それも俺にとっては好都合だった。蛙より飛び上がって父ちゃんを組み敷く。

 殴られるよりも早く、胸を搔っ捌いて心臓を丸呑みにした。

 脈打っていた心臓が静かに喉を通る。

 ごくり、と飲む頃には父ちゃんも動かなくなっていた。


「……ヒヒヒ」


 その時、俺は初めて笑った。一度笑うと、止めどなく笑いが溢れてきやがる。

 もっと早くこうするべきだった。良心? 理性? ……クソ喰らえだ。

 狂ってる? ああ、それこそ俺は最初から狂ってたんだ!

 !!


 あんなに空いていた腹が埋まっただけで、こんなにも心が満たされる。

 子を養い、飯を食わせるのが親の役目だとするのなら、こいつらはようやくその役目を果たしてくれた訳だ。


 俺は二人が飯を食ったあとにしていたように手を合わせた。


「ごちそうさまでした」


 命を頂いたんだ。これぐらいは、ちゃんとしねェとな。

 立ち上がると、俺はフラフラと外を出た。流石にこんな事をしちゃァ村にいられない。

 金もねェし、持っているのはこの包丁一つだけだが、まあ食うには困らねェだろう。

 俺のはそこら辺にあるんだからな。


 それから俺は、人を食いながらあちこちをうろついた。一つの所に留まってたら捕まるからな。

 着物が血生臭くなれば死体から剥ぎ取れば良かったし、浮浪者に目を向ける奴なんぞ、そうそういねェ。

 目立たずにいれば、簡単に人間は食える。特に夜、酔っぱらいのふらふらしてる町人が一番狩り易かった。

 逆に侍は駄目だ。奴らには刀がある。あれで斬られると痛ェんだよな。

 まァ、余程の事が無い限り食ってやったんだが。


 そんなある日、満月の明るい夜に俺は一際毛色の変わった人間を見つけた。

 雪みてェに白い髪と、血みてェに赤い目。着てるのも着物じゃねェ。今で言う洋服だ。

 俺が異人を見たのはそれが初めてだった。そして興味を持った。奴は一体、どんな味がするんだろうか?

 実は、人間は一人一人味が違う。食ってるもんだとか、歳とか、多分そんなものの違いだろう。

 だから、食った事のない姿の人間を見た時はいつも嬉しかった。

 まだ俺の知らない味……楽しみだ。


 背後から襲いかかる。


「わっ」


 悲鳴を上げる暇なんざ与えねェ。すぐさま首を掻っ切ると、路地裏まで引き摺って腹を搔っ捌いた。

 そのままはらわたに口を付ける。


「うげえっ」


 が、すぐに吐き出した。何でって、今までで一番不味かったからだ。

 まだ泥水の方がマシだと思うくらい反吐の出る味だった。

 こいつ……、本当に人間なのか? 恐々とつついてみると、虚ろだった目がギョロッとこっちを見た。


「ゲッ」


「その反応は酷くないかい? 見たところ、君が最近噂の人喰い鬼だよね? さっきボクを食べた瞬間吐きだしてたけど……、そんなに不味かった?」


 腸を剥き出しにしたまま奴は起き上がる。自分の状態にあまり興味はねェ、というか、俺の方が気になるとばかりに質問攻めにしてきやがった。


「食人の趣味は無いけど、少し気になってはいたんだよね。共食いする人間の体の構造。君はどんな人間なんだい? というか本当に人間? もしかして別の生命体だったり? 魔力自体は無いみたいだけど……それも関係あるのかな?」


「し、知らねェよ」


「もったいないなあ。ボクなら、自分を解剖してでも原因を探るのに。ああ、でも今君を解剖すれば良い話かな? だけど、このまま君のような存在を亡くしてしまうのも惜しいなあ」


「黙れ!」


 俺はイライラして奴に包丁を突き出した。


「おっと」


「お前、人間じゃねェだろ。喉を切られて腹を搔っ捌かれてもまだ生きてるなんてありえねェし、肉も不味まじィ。……一体、何者だ?」


 奴はぽかんとした後、腸の飛び出している腹を抱えながら笑い出した。


「あはははははは! そうか、味で不死者かそうじゃないのか分かるのか! 凄いね! うん、ボクは人間じゃないよ。『不死者』──死なない存在さ。もちろんこの傷もすぐに治るよ。ほら」


 奴が自分の体を一撫でしただけで、喉の傷も腹の傷もなくなった。腸も中に収まってるみてェだった。


「いやあ、久々に笑ったなあ。まさか、ここで君みたいな面白い人間に出会えるなんて、思いもしなかった」


 何が可笑しいのか、奴はケラケラと笑っていた。その様子が不気味で思わず身を引く。


「……俺を奉行所に突き出さねェよな?」


「どうして? だって君は、をしていただけじゃないか。それだけで、一体何の罪に問われると言うんだい?」


 その一言で察した。奴は俺より狂ってる。

 ……いや。人間じゃねェならそれが当たり前なのか?


「そうだ。こんなに笑わせてくれたお礼に、君も不死者にしてあげようか? その体の傷から見るに、人間を食べるのも楽じゃないんだろう? 死ななくなるだけで随分楽になると思うんだけど……。どうかな?」


 そう言うが、目だけは笑っていなかった。いや、今だけじゃねえ。奴は最初から、本気で笑っちゃァいなかった。

 見た事がある。奴の目は、無関心だ。言葉でこそ俺に興味のある素振りをしちゃいるが多分全部本心じゃねェ。

 ここで俺がどんな選択をしても微塵も興味はねェし、その気になればいつでも殺せる──奴はそういう目をしていた。思わず冷や汗が流れる。


「どうする?」


 奴は重ねて尋ねた。これは、どう足掻いても逃げらんねェな。


「なってやろうじゃねェか。その不死者って奴に」


 恐怖心を悟られないように、わざと笑顔で答える。


「分かった」


 奴も、月に照らされながら不気味に笑っていた。


 不死者になった俺は、まァ特に何か変わる事もなく暮らしていた。いや、侍を多く食うようになったくらいか? 良いモン食ってるから結構美味ェんだよな。

 不死者って言うだけあって、刀で斬られても死なねェからな。そこだけは奴に感謝してやってもいい。

 なんだっけか……透無虚鵺とうむからや、だっけか? 名前なんざどうでもいいか。


 ただなァ、死なねェっていうのも案外退屈なモンだな。人間を食う事以外の趣味もねェから、それ以外の時間が暇でしょうがねェ。

 いっそ一つ、村でも滅ぼしてみるか? と手頃な村を訪れてみた。

 山奥にひっそりとある小せェ村だ。

 夜、入口にある家から食っていきゃァどうにかなるだろうと思っていると、外れの洞穴からすすり泣く声が聞こえた。

 気になって覗いてみると、死に装束を着た若い娘が顔を手で覆って泣いていた。


「オイ、お前」


「ひいっ」


 声をかけると、娘は短く悲鳴を上げた。

 涙に濡れた目が俺を見る。


「何してンだ、こんな所で」


「か、神様に……私の命を捧げて、村に雨を降らせてもらうの……。水不足だから……」


「はァ」


 神様なァ。いるのかねェ? そういうの。もしも居ンなら、俺みたいのを作った理由を聞いてみてェもんだ。


「貴方、誰……?」


 娘は震えながら尋ねる。……ああ、こんな所まで来たもんだから腹が減ってんだよな。

 俺はそれに答えず、娘を襲った。丁度この前食った侍から捕った短刀があったからな。切れ味がとてもいいから、そんなに苦しまず逝けただろう。

 娘の腕を食っていると、周りに白骨死体がいくつもあるのに気付いた。こいつら全員、この娘みたいに置き去りにされた奴らか。

 勿体ねェな、神様とやらも。俺ならこんな無駄なく食ってやるのによ。

 足を切り取って見てみると、健が切られていた。なるほど、逃げられねェ訳だ。酷い事する村もあったもんだな。


 娘の目ン玉を飲み込む頃には、外は夕暮れになっていた。薄暗くなった洞穴で背伸びをする。その俺の顔を、松明の光が照らした。思わず眩しさに目を細める。


「誰だお前は! ……み、美代みよ!!」


 松明を持った男が声を荒げる。その後ろにも数人男がいた。ざわざわとうるせェ事。


「化け物め!!」


 誰かが斧を投げる。それは俺の頭の半分を切り取ったが、すぐに治った。


「ギャアッ」


 騒めきが更に大きくなる。洞穴に反響する声が煩わしくて、俺は低い声で言った。


「何すンだ。俺相手に」


「ま、まさか貴方様は……ひいいっ」


 少し睨むだけで、男達は土下座をした。


「神様とは知らずとんだ御無礼を……!!」


 ……俺を、神様と勘違いしたのか。こんな人食いを? ……面白ェ。


「いい、そう硬くなるな。いきなり俺みてェのに出会えば、そりゃァ不気味だろうよ」


 偉ぶった侍や、裕福な商人共の態度を思い出しながらそれらしい声色を出すと、男達は顔を上げた。


「お、お許しいただけるのですか……!?」


「あァ。ただし一つ条件がある。生贄をもう一人寄こせ。俺は今、腹が減ってンだ。骨と皮しかねえ老人と、肉付きの悪ぃガキじゃなけりゃ誰でもいい」


「わ、分かりました……!」


 男達はぺこぺこしながら出ていった。

 やっと静かになった洞穴で、白骨の山の上に寝そべる。

 この俺が、神様の真似事をやる羽目になるとはなァ……。


「ヒヒヒッ」


 とても可笑しくて笑いが漏れる。

 神がいるかどうか俺には関係ねェ。だが、楽して食えるなら万々歳だ。

 神様よォ、安心していいぜ。お前の代わりに無駄なく食ってやるからよ。


 その後、全くの偶然だが雨が降った事で、俺が神様だと言う事が村に知れ渡った。

 全然違うがな。ヒヒッ、偶然様々だぜ。


 まあでも、黙って神様やンのもつまんねェもんで。少し事もしてやった。

 そのおかげか肉の質も落とさず、食べ頃になる前に死んじまう奴も減った。

 なァるほどな。この体は、にも使えんのか。

 この事は奴も知ってんのかね? 知らねェなら、きっと喜んで自分も同じ事をするって言いそうだな。ヒヒヒッ。


 俺が神様になっておよそ六十年経った頃、村に変わったガキ共が来たらしい。

 黒髪と赤い目の女のガキと、茶髪と茶色の目をしたヒョロい奴。食い甲斐こそ無さそうだが、久々の来客だ。

 少しばかり、話してみようじゃねェか。



 大正アルケミスト復讐譚 八話に続く

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