追走劇
どうしたものか。ゲントは潜んでいた酒場のカウンターから外の様子を窺いながら、思案していた。同行していた自警団は死に、手元には武器もない。自警団たちを死に至らしめた黒腕の魔物は、今はうずくまったまま動こうとしない。逃げ出すわけでもなくただずっとそこにいる。
ゲントは音を立てずにカウンターから抜け出す。極力魔物から目を離さないようにしながら入ってきた酒場の入り口へ近づく。ドアの抜けた入り口から少し顔を出した。最初に魔物から襲われた場所に、頭の亡くなった遺体が見える。魔物からは距離のある遺体までゲントは低い姿勢で進む。遺体は頭部はともかく、それ以外は綺麗な状態だった。ゲントは死体がつけている剣帯から剣を抜くと、急いで道を戻る。また酒場の前まで移動し、魔物の視界から外れているか注意する。それがすむと手にもつ白の剣へと目を落とした。鞘と鍔は白い鉄で作られていて、柄には革が巻かれている。他に目立った装飾も銘も書かれていない、簡素な印象を持たせる剣だった。だが先の自警団の死闘を見て、この剣が業物であることをゲントは知っている。柄を握り、刀身を抜いた。
刀身は美しい白色だ。不純物のない純白の輝きにゲントは思わず見ほれた。盗品や錆付きなどの傷物を使ってきたゲントはこの水準の剣は初めてだ。一瞬浮き上がる気持ちを鎮めて鞘にしまい剣帯に装着する。これで無手だった問題は解決した。だからと言って魔物に対抗できるとは思っていないが。
迷わず退くべきだ。ゲントはそう結論づける。レベル持ちの、それに熟練の面々が五人とも敗れたのだ。今は手負いとはいえゲントがいってどうこうできる相手ではないし、そんな義理もない。ただなんとなく少しだけ、彼らの戦いが無駄になるかもしれないことに引っ掛かりを覚えているだけだ。
ゲントは魔物の生態を詳しく知らない。せいぜいが人から伝え聞いた情報ばかりだ。冒険者でもないゲントには無縁の存在だったので進んで知ろうともしなかった。だが魔物がダンジョンの外へ逃げ出すという話は今まで聞いたことが無かった。あるいは住民が混乱しないよう敢えてその情報が伏せられていたのだろうか。しかしゲントがここに来て十年間の間にそんな事件があった記憶は無かった。そもそも酒を飲むとおしゃべりになる冒険者たちがそんな秘密を隠し通せるとも思えない。
ますますもって謎だ。そもそもとしてあの生物が魔物でない可能性はあるのだが何故かゲントは確信をもって否定できる。あれは魔物だ。本能で感じたのだ。普段ゲントが当てにしない根拠のない考えを何故か今は肯定してしまう。得体が知れないのだから魔物なのだと。
なぜ魔物がダンジョンの外にまで移動し、暴れているのか。自警団はなぜ身分を偽って依頼を持ち掛けてきたのか。依頼主のシュークレスの正体と目的は何なのか。ゲントにはまるで分らない。普段なら「どうでもいい」で済ますその疑問が何故か気になる。詳細を明かされず利用されたからだろうか。最初の魔物の攻撃で下手したら死んでいたからだろうか。それもよく分からない。
呼吸を止めてとりとめのない思考を落ち着かせる。まずはこの場を離れる。表通りまで戻り、依頼主のシュークレスかジェルコと共に動いている筈の他の自警団と合流する。魔物を発見したことと、自警団が死んだことを伝える。自分一人が逃げ帰ったことで心象は悪くなるかもしれないが元々探索の依頼なのだ。文句を言われる筋合いはない。それを危惧して探索の始めにリーダーの男から言質を取っていたのだが、無駄になってしまった。
ともかく魔物と出会った位置を伝えれば後は勝手にやるだろう。魔物がいた位置まで直接案内するよう言われるかもしれないが、そのときはそのときだ。上手い断り方を考えておこう。
ゲントはもう一度、魔物の方を見やる。魔物は未だに動かない。それほどまでにダメージが大きかったということだろうか。魔物の欠損した、右足と右腕の切り口からは黒い粒がこぼれ続けている。あのまま休息を続けていれば腕や足が復活するのだろうか。それとも戦闘で負った傷の痛みを、ああしてやりすごしているのか。それでも少し不自然に思った。休んで生え変わるというなら身を移して人目に付かない場所に行ってからにすればいい。魔物がいる枯れた噴水広場はゲントが担当する区画でも広い場所だ。貧民の数が多く妙な生物がいれば目撃例が出るだろう。それが分からぬほどあの魔物は愚かでないはずだ。
あの魔物に痛覚があるにしても、自警団との戦闘中はそれを無視して猛攻を仕掛ける場面が何度かあった。
仮に、魔物の今の振る舞いが演技だとして。初めに魔物から逃げ出したゲントの存在を忘れていない場合。
手負いで弱った自分を仕留めようとする誰かをあの魔物は待ち伏せているのかもしれない。
背筋にツウと、汗が垂れたのが分かった。無いはずの魔物の頭から、自分を見つめる眼差しをゲントは感じた。錯覚なのかは分からない。ゲントは建物の角から覗いていた頭を引っ込めると表通りに向きを変え、足を進め始める。走るでもなく、忍び足でもない。至って普通の歩きを意識する。
ズシンという音がした。その音はゲントが足を進める度、距離を縮めるように地面に響く。音は段々と間隔が短くなっていく。
ゲントは走りだす。走る地面の足元に巨大な振動が伝わってくる。ゲントは足を止めることなく背後を見た。黒腕の魔物が猛然と迫っているのが見えた。腕をはたいて飛びながら、ゲントに距離を詰めてくる。それでもまだかなり離れてはいる。だが魔物の移動速度とレベル持ちでないゲントを比較すれば決して余裕のある長さではないだろう。ゲントはすぐに視線を前に戻し、今走っている通路の分岐を探す。背後で貧民の叫ぶ声が聴こえた。魔物は他の人間に目もくれることなくゲントを追っているらしい。どうやら貧民では囮にはならないらしい。思えば頭も目もないのにどうやって魔物はゲントを識別しているのだろうか。ゲントには知る由もないが。
間を開けずゲントは手近な細道を見つけた。その細道は人間がすれ違う時に肩がぶつかるほどの幅しかない。黒腕の魔物は大柄だ。あの体躯では身体が邪魔になって追ってくることはできないだろう。この道の方角は表通りに向かうには少し逸れるが、文句も言ってられない。ゲントは走る方向を変え、勢いを殺さずそこへ入る。
ゲントが細道に入りきった後、すぐ背後で地面を抉る打撃音がした。その衝撃が足元まで伝わり一瞬態勢を崩されるが、どうにか転倒は避ける。不格好な姿勢で必死に足を回そうとする。
すぐ頭上で何かが蠢く気配がして咄嗟にしゃがむ。そのままゲントは前に飛んで転がる。自分の背中のすぐ近くで何かが擦った感触があった。
通路で無様に転がり、すぐに体を起こしてまた走る。しばらくそうしていると自分を追っていた足音が消えていることに気づく。通路を振り返り、入口へ目を向けた。細道の向こう側には魔物の姿はなかった。
「……」
走る速度を緩めて、乱れた呼吸を整えていく。予想通り、この道は魔物には狭すぎたのだろう。通路に入って追ってくることはできなかったらしい。だがそれだけで追跡を諦めるような生物ではないはずだ。あの魔物は執念深い。驚異的な破壊力と身体能力もそうだが恐ろしく機転が利く。自警団を壊滅させたのは腕力だけでない予想外の魔物の攻めがあったからだ。それは敵を抹殺するというゆるぎない目的を持たなければ成り立たないだろう。まさしく執念だ。一度敵を認識すれば、どれだけ己が傷つけられようと殺すことをやめようとしない。無論それはゲントも例外ではない。通路に入れないだけで、あっさり引くほどあの魔物は甘くない。今もまだゲントを殺そうと画策しているはずだ。
この先表通りを向かうにあたって何か所か開けた空間を経由する必要がある。そこに出てしまえばまた次の細道に入るまで魔物の攻撃を防ぐ手段はないだろう。レベル持ちでないゲントではあの魔物を正面からやり過ごすのは不可能だ。現に先ほどの追いかけっこでもゲントは魔物に簡単に追いつかれた。素の能力に差がありすぎるのだ。かといってこの細道にずっと潜んでいても現状は解決しないだろう。金を払って貧民の誰かに情報を伝えて代わりに向かってもらうことも考えたが、細道には不自然なほどに人がいなかった。皆建物の中に隠れて息を殺しているのだろう。いくら愚かな貧民たちでも命の危機の前では怖気づくのだ。
思案したまま時間だけが過ぎていく。最初に捜索を始めてからどれだけ時間が経ったのだろうか。自警団と行動を共にした時から日が暮れ始めていた空は、とっくに黒に染まっている。
裏通りには照明などが一切ない。カンテラはもちろんのこと蝋燭や油を用意する金もここで暮らす者にはないからだ。だから裏通りの夜は想像以上に暗くなる。だがゲントにとっては見慣れた光景だ。十年間ここで過ごしてきたのだ。怯えはない。その筈なのに今だけは暗闇の向こうから真黒の魔物が現れるのではないかと考えてしまう。
剣の柄頭を撫でて、余計な思考をなくす。視界はただ映すだけのものだ。それ以上でも以下でもない。
改めて明瞭になった景色を見たとき、ゲントの近くの石畳に何か砂粒のようなものがこぼれているのに気付いた。砂埃など裏通りでは珍しくないはずなのに、その砂粒は夜でも分かるほどに黒かった。ゲントはそれをついさっき見ている。魔物の傷口からこぼれていたあの粒だ。
ゲントの周囲に影がさす。まるで頭上に何かが覆っているように。
ゲントは勢いよく身体を横に倒した。そのすぐ後にゲントの居た位置に黒い塊が降ってくる。魔物の拳だった。素早く頭上を見れば、魔物が建物と建物の間に身体を引っ掛けて左腕を振り下ろしていた。さながら蜘蛛のようである。どうやら魔物は切れた右腕と左腕で高所の建物の屋上まで登っていたらしい。
横になった姿勢から立ち上がるより先に魔物の左手にゲントは捕まる。魔物はゲントを握ったまま屋上まで登っていく。正方形の屋上に着いたあと魔物はゲントを左手で絞め始めた。
「がぁ……」
たまらず呻き声が漏れる。両腕ごと魔物の左手に納まっているせいで剣を抜くことすらできない。これが死か。心のどこかで望んでいた筈のそれはとても苦しいものだった。現世にいる限り死に至る最後まで楽ではいけないらしい。着ていた川鎧がめり込んでいくのが分かる。鞘が身体に埋まって、身体の底からありえないものがせりあがる感覚があった。肉が次第に膨れてゆき、そして—
魔物の左手が流砂の如く崩れていった。
自分を包んでいた圧が消える。肺に空気が回る感触があった後、たまらずせき込んだ。息を吸うと腹に痛みが走った。何本か折ったのだろう。右腕にも痺れと強烈な熱さを感じる。ゲントの利き腕は右だというのに、ついていない。
魔物の方を見れば、崩壊したのは左手だけではなかった。左腕も胴体もみるみるうちに崩れていく。姿勢を崩す魔物が残った腕で身体を支えようとするが、負荷をかけた端からまた崩れていく。魔物はそのまま突っ伏した。大量の黒い粒が周辺に積もる。
ゲントはそれを呆然と見ていた。魔物の身体はひび割れほとんど粒になり、もはや原型がない。崩れた黒い粒の中から何かが動くのが見えた。右腕が動かないので、いつもとは逆の左手で剣を抜く。剣帯の左に剣を着けていたので少してこずった。すこしもたついてから剣を構える。
魔物の残骸をかき分けて出てきたのは一人の少女だった。
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