第2話 黄昏
からんころん、優しいベルの音と一緒に、ヘアサロンの扉が開く。「いらっしゃいませ。あっ!いつもありがとうございます!お待ちしてましたぁ。前回からだいぶ伸びましたねぇ!」いつもの担当美容師が、ぱっと花が咲いたような笑顔で迎えてくれる。
そうなの、伸びるのがはやくって、すぐ重くなるのよ。困っちゃう。彼に野暮ったいところは見せたくないし。そう答える私を、担当美容師のお姉さんは「髪のボリュームがあるの、羨ましいですけどねぇ」と持ち上げつつ、席に案内する。私が腰を落ち着けたのを見計らい、彼女がくるりと椅子を回す。絶妙なタイミング。にこり、と鏡越しに笑顔を向ける彼女が耳元で、「旦那様の反応、どうでした?」と囁く。ええ、良かったわ。横目でちらちら見るだけでまっすぐ見てくれないのは相変わらずだけどね。でも、いつもより親切でね、ドアを開けてくれたり、ちょっとしたことだけど。
「いいなぁ!あーもう!惚気話し聞きたいの半分、羨ましいから聞きたくないの半分!!」大げさに身をくねらせながらそう叫ぶ彼女を眺めて、鏡越しに苦笑する。「その余裕の笑顔!お子さんが生まれてからもそんなに大事にして貰える人なんて、滅多にいないんですからね?!しかもお子さんも可愛いんでしょ?」と水を向けられて、私は彼の遺伝子を継いだ子どもがいかに可愛いかを語り始める。
彼に似た顔立ちでね・・・・・・男の子が小さい頃から男親に似るのって珍しいんですってね・・・・・・目がぱっちりしてて可愛いの。髪は私のと似てるかしら。重ための黒髪で、ストレートなの。でも好き嫌いが多いのはちょっと困っちゃう。「好き嫌いくらい、大丈夫ですよ。大きくなったら食べられるようになるものもありますし。あ、今日も前回と同じでってメール頂いてましたけど、切り戻す感じで良いですか?少し軽くしましょうか?」そっと髪に触れてくる彼女に、そうね、少し軽くして頂戴。暑苦しくないように。彼、私に隠してるつもりだろうけどボブカットの女優さんが好きなのよ。だからこっそり似せてるの。と告げる。
彼女はくすくすと笑いながら「言ってましたもんねー!部屋の掃除の時にうっかり見ちゃったんでしたっけ?そっと戻しておいてあげるの優しいですよぉ。私ならネタにしちゃうかも」とおどけてみせる。あらあら、男性は意外と繊細なのよ?見ないふり、見ないふり。くすくす、くすくす。二人の間で、笑い声が往復する。シャンプーで髪の状態を整えたら、カットの時間。いつも通りのキラキラママ御用達雑誌を広げ、最先端でありながら動きやすい服装、女性を感じさせるネイル、時短レシピにご褒美スイーツといった情報に目を通していく。
「それにしても、お子さんがいるとは思えないこの髪質に、お肌。何食べてたらこうなるんですか?」しゃきしゃき、と小気味良い音を立てて鋏を動かしながら、彼女がため息をつく。ひくり、と手が動くのをページをめくる動作に紛れさせる。当然よ、彼には一番綺麗な私を見せたいもの。いつでもね。そう言ってにこり、と笑えば、彼女からも笑顔が返ってくる。
あ、このスイーツなら彼も食べてくれるかも。そう呟きながら、目に留まった記事をスマホで撮影する。「旦那様、甘い物嫌いなんでしたっけ?」と首をかしげる彼女に、そうなのよ、私が美味しかったから半分あげようと思って置いておいても全然食べてくれないの。もったいないわよねぇ。と眉を上げてみせると、彼女も「やーん、もったいない!むしろその半分私にください!って感じです!」と同調する。
「にしても、スマホの待ち受けが旦那様のアップってほんとラブラブですよねー。どうしたらそんなに熱い夫婦関係が保てるんですかー?」と、ドライヤーに手を伸ばしながら彼女がにまにまと冷やかしてきた。いやぁね、これはちょっと寝顔がたまたま写せたから。こないだまでは息子ちゃんだったでしょ?と慌ててみせる私の声は、ドライヤーの音でかき消された。
施術後のマッサージと、ハーブティーですっかりリフレッシュした私は、からんころん、という音と、美容師のお姉さんに見送られて家路につく。
ああ、今日もあのお姉さんに言えなかったなぁ。
「これ、全部お隣の家の話なの。でも私、彼のこと、彼の奥さんよりよっぽど知ってるわ」って。
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