中学3年生、春(11)
カッターナイフの刃を手首に当てる。
単純な温度とは違う冷たさが、肌の向こうの青い血管を通して身体中に広がる。この刃をすっと横に引けば、本当に赤色の血液が傷口からあふれ出る。想像して、だけど実行はせず、カッターの刃をしまう。
カッターをデニムのポケットに放り込み、『QueenⅡ』を入れたボディバッグを肩にかけて、僕は部屋を出た。休みだから父さんも母さんも家にいるはずだけど、玄関から外に出るまで声をかけられることはない。気づいていないのか、どうでもいいのか。まあ、どちらでも構わない。少なくとも僕は、あの人たちのことなんて、どうでもいい。
外は思っていた以上に温かかった。空の青色がやけにくっきりとしていて、梅雨を通り越して夏になってしまったような雰囲気を感じる。いつものコンビニで僕を待っていた細川さんも、上はブラウス一枚、下はスカートという軽装だった。
「おはよう」
「おはよう」
「行こうか」
「うん」
短い会話を交わし、二人でバス停に向かう。歩きながら、僕は兄ちゃんのお見舞いに行った日のことを思い出す。僕はこの子を利用してばっかりだ。僕が兄ちゃんを好きだったのと同じように、この子も僕のことを好きなだけなのに。
「ねえ」
細川さんがハンドバッグに手を入れ、小さな袋に包まれた飴玉を僕に差し出した。「食べる?」
ハッカの飴。そういえば、好きだって教えてたっけ。もう一年以上前のことなのに、よく覚えている。
「ありがとう」
飴を受け取り、中身を口に放り込む。すうっと清涼な香りが口から鼻に抜ける。今日の天気に相応しい爽やかな匂いが、今の気分には全く似つかわしくなくて、やけにおかしく思えた。
◆
墓地は、海のすぐ傍にあった。
墓地の管理者に聞いて、兄ちゃんのお墓がある場所はすぐに分かった。「ご家族かな?」と聞かれたので「そうです」と答えると、隣の細川さんが唇を歪めた。事務所を出てすぐ、細川さんがその理由を語る。
「本当は、恋人なのにね」
「でも、家族も間違ってないよ。従兄だから」
「え?」
細川さんが言葉を切った。それから、はーっと長い息を吐く。
「すごいね」
「そうかな」
「そうだよ。なんか……オトナの世界って感じ」
大人なものか。大人はもっと器用だ。大切な人が一人いなくなったことぐらい、世界と折り合いをつけて乗り越える。そのうち「あの出来事があったから今の自分がある」みたいに、いい思い出として他人に語りさえする。
大人になりたい。兄ちゃんが生きている時はずっとそう思っていた。だけど今は違う。大人になんてなりたくない。僕は子どものまま、この想いを抱えたまま、兄ちゃんのところに行く。
「そんなことないよ」
意地悪く、歩調を速める。細川さんは少し息を切らしながら、何も言わず僕についてきた。線香を買い、木桶に水を汲み、雑巾を持って墓地を歩く。
見覚えのある苗字が刻まれた墓石が、僕たちの前に姿を現した。
香炉の上には線香の燃えカスが残っている。生けられた花はまだ枯れていない。だけどこれは葬式からまだ時間が経っていないからだ。そのうち線香を供えたり、花を生けたりする人間なんて、一人もいなくなるだろう。
「けっこう綺麗だね」
「お葬式をしたばっかりだから」
「……そっか」
細川さんが口を閉じた。それから水に濡らした雑巾で墓石を拭き始め、僕も同じように拭く。今や兄ちゃんそのものとなった墓石。だけど灰色の四角い石はどこまで行ってもただの石で、僕にこれといった慕情を抱かせることはなかった。
墓石を拭き終わり、線香を供える。しゃがんで手を合わせ、目を瞑っても、まぶたの裏には何も浮かばない。死の衝撃が去った後に残る悲しみは、大切な人を失った世界で生きなくてはならないことへの嘆きだ。僕には関係ない。生きないから。
目を開き、立ち上がってポケットに手を入れる。指先にカッターナイフが触れ、ほんのわずか背筋が伸びた。僕の後に焼香を済ませた細川さんが、声をかけてくる。
「この人、どういう人だったの?」
――難しい質問だ。僕にとって兄ちゃんは兄ちゃんだ。それ以外の何者でもない。
「頭のいい人だったよ」
「好きなものとか、趣味とかは?」
「洋楽をよく聞いてたかな。QUEENとか」
「QUEEN?」
「昔のバンドだよ。ボーカルが僕たちと同じ、男もイケる男だったんだ」
そしてここに眠っている人と同じ病気で、同じように死んだ。君にそこまでは話してないから、言わないけれど。
「仲間だから惹かれたのかな」
「分からない。でも僕は違うと思う」
「どうして?」
「いい音楽だから。僕も聴いてすぐに気に入った。まあ僕も仲間だから、反証にはならないかもしれないけど」
「ふうん」
細川さんが口元をほころばせた。嬉しそうな表情に、違和感を覚える。
「なにか面白いこと言った?」
「そういうわけじゃないけど、好きな音楽の話とか初めて聞いたから」
「好きっていうか……影響されてただけだよ。恋人の趣味で服の趣味が変わるのと同じ。馬鹿みたいでしょ」
「そんなことないよ」
間髪入れず、細川さんが僕の言葉を否定した。海風が線香の匂いを散らす。
「いい音楽だと思ったんでしょ。なら私は『好き』でいいと思うよ」
細川さんがちらりと横目で墓石を見た。そしていつものように、手持ちぶさたに三つ編みを撫でる。
「そういう風に、この人が残してくれた『好き』を、大切にした方がいいと思う」
右手が、無意識にボディバッグに触れた。
布の上から『QueenⅡ』のパッケージの硬さを感じる。僕はこれを墓に供えに来た。兄ちゃんから受け継いだものを、兄ちゃんに返しに来た。それで全てが終わる。終えることができる。
終わってしまう。
「行こうか」
来た道を見やり、細川さんが呟いた。待って。まだやることがあるんだ。そう言わなくちゃならないはずの僕の唇が、全く別の言葉を返す。
「うん」
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