中学3年生、春(12)
バスを降りる。
つい数時間前、この街を出るのに使ったバス停が道の向こうに見えた。帰って来た。その事実に違和感を覚える。元から戻ってくるつもりはあったから、『QueenⅡ』を供えていないこと以外は予定通りなのに。
「ねえ」
細川さんが、僕を上目づかいに覗き込んだ。
「帰る前に、ちょっと寄り道しない?」
首を縦に振る。細川さんはすぐに「じゃあ、行こ」と呟き、足早に歩き出した。その足取りは力強かったけれど、その背中は小さくて、僕を導こうとしているようにも、僕から逃げようとしているにも見えた。
遊ぶところなんて何もない休日の街は人気が無くて、僕たちは年頃の男女が二人で歩いているというだけでそれなりに目立っていた。やがて僕と細川さんが初めて話をした海浜公園につき、遊びに来ている家族連れで周りが少しにぎわう。海辺のベンチに座るや否や、僕たちの前を子どもたちが奇声を上げながら駆け抜け、細川さんが苦笑いを浮かべた。
「子どもって、元気だよね」
「そうだね」
淡々と答える。細川さんが少し黙り、だけどすぐ、さっきより声量を上げてまた話しかけてきた。
「ずっとここに住んでるんだよね」
「うん」
「じゃあ、子どもの頃、家族とこの公園に来たこともあるの?」
ある。僕がうんと小さい頃、何度か家族三人でピクニックに来た。母さんの作ったお弁当を三人で食べて、父さんとあちこち駆けずり回って遊んでもらった。まだ僕の一番が父さんと母さんだった頃の話だ。だけど兄ちゃんを好きになって、全てが変わった。
じゃあ兄ちゃんがいなくなったら、どうなるのか。
また、全部ひっくり返るのだろうか。何もかもが過去になって、一からやり直すことになるのだろうか。思えば僕が今まで好きになった相手は兄ちゃんだけだ。もしかしたら僕は同性愛者ではないのかもしれない。たまたま兄ちゃんが男だっただけで、今度は全く違う、女の人を好きになる可能性だって――
「どうしたの?」
横を向く。
細川さんが心配そうに僕を見る。僕は呆然と細川さんを見返す。風と波の音が世界を埋める。世界を埋め尽くした音はやがて一つになって僕を覆い、まるで深海の底に飛び込んだみたいに、僕の周りからノイズが消える。
今、僕は何を考えた?
「昔のこと、思い出した?」
違う。逆だ。僕は今、未来のことを考えた。もう捨てたはずの、考えなくてもいい未来のことを。
「いい思い出なら、たくさん思い出した方がいいよ。今まで辛いこと、たくさんあったと思うけど、それだけじゃないでしょ。お父さんもお母さんもいつか認めてくれる。そう考えて生きた方がいい」
生きる。僕は、生きたいのだろうか。だから兄ちゃんの墓に『QueenⅡ』を供えることができなかったのだろうか。
「大丈夫。絶対にどうにかなる。わたしね、思うんだ。お父さんたちは、女の子と結婚して家庭を築けって言ってるんでしょ。だったら――」
細川さんの身体が、僕の方に傾いた。僕を見つめる瞳には強い意志が込められていて、ほんの少し、潤んでいる。
頭の後ろから、僕の名を呼ぶ叫び声が届いた。
◆
振り返る前から、どんな表情をしているかは分かっていた。
眉を吊り上げ、唇を引き絞り、僕をにらみつける。去年の冬ぐらいから、僕に向けられるこいつの――半田の顔はこれで固定されている。そしてそれを残念だとも思わない。むしろ分かりやすくて、安心する。
「何やってんだよ、お前」
僕のすぐ傍まで来た半田が、乱暴に言葉をぶつけてきた。細川さんと歩いているところをどこかで見られたのだろうか。半田自身が見たのではなく、他の誰かに教えられた可能性もある。あの学校の連中はそういう風に人をけしかけるのが好きで、だから僕は、あの空間が嫌いなのだ。
「お前、ホモなんだろ。女に興味ねえんだろ。なのに、なんでまだ細川とベタベタしてんだよ」
苛立ちが伝わる早口。細川さんが横から刺々しい声を挟んだ。
「勘違いしないでよ。わたしが誘ったの」
「んなことはどうでもいいんだよ。断れって言ってんの。こいつがそうやってダラダラ引っ張るから、細川もこいつのこと好きなまま、諦められないんだろ」
「わたしが誰のことを好きでも勝手でしょ!」
「ホモなんか好きになっててもしょうがないだろ!」
二人が声を荒げた。激しい言い争いが風に乗って広がる。近くを走り回っていた子どもたちが僕たちの方を見て、怯えた顔をして離れていく。
「お前さ、いつまで細川に甘えてんの?」
半田が僕に話を振った。僕はぼんやりと半田を見上げる。
「お前だって、良くないことぐらい、分かってるだろ」
そうだな。全ての歪みが僕に起因することぐらい、僕は消えるべき存在だということぐらい、お前に言われるまでもなく分かってる。消えた方がいい存在が、消えたいと思っているのに消えないの、おかしいよな。でも、これは僕も驚いてるんだけど、人の生存本能って思ってたより強いみたいでさ。ほんの少しでも居場所があると思ったら、そこにすがりたくなるものみたいなんだ。
だから、先に消すよ。
僕よりも先に。
僕の居場所を。
「半田」
ベンチから立ち上がり、デニムのポケットに右手を入れる。指先に触れたカッターナイフを掴んで取り出すと、半田が一歩あとずさった。僕は自分の左手首を目の前に運び、カッターナイフの刃を出してにたりと笑う。
すっ、と。
豆腐に包丁を入れるように、手首にカッターの刃を当てて横に引く。切れ目から濃い赤色の液体があふれ出し、重力に従って腕を伝い、肘から地面に落ちていく。「普通」の人間と変わらない、赤い血液が流れていたことに、ひどく虚しさを覚える。
左手を下げると、血液が今度は指に伝わっていった。視線を泳がせ、目に見えて狼狽している半田に向かって、静かに問いかける。
「HIVって知ってる?」
半田は問いに答えなかった。言い争いを怖がって逃げた子どもと同じ、怯えるガキの目で僕を見ている。
「AIDSは知ってるだろ。分かりやすくいうと、それの元になるウィルスだよ。人の免疫力を低下させるんだ。僕はそれに感染している。恋人から伝染された」
左手を水平に伸ばす。血液がまとわりついた指を、半田につきつける。
「この血の中に、ウィルスがいるんだ」
半田の顔に手を近づける。半田の背中が、ビクリと上下した。
「――止めろ!」
半田が両腕で僕の胸を押した。僕は背中から地面に倒れ込む。薄いシャツ越しに背中とコンクリートが擦れ、皮膚がチリリと摩擦熱に焼かれた。
半田の小さな鼻のてっぺんに、飛び散った僕の血液が付着していた。違和感に気づいた半田が鼻を擦り、指に移った赤色を見て目を見開く。僕は唇を吊り上げ、言ってやった。
「そこにもいるよ」
半田が勢いよく手を振る。ウィルスを振り払おうする仕草が滑稽で、僕は口元の笑みを深めた。そんな僕を見て、半田は獰猛な獣から逃げようとするみたいに、こちらから目を逸らさずじりじりと後ずさる。
「……お前、おかしいよ」
半田が捨て台詞を吐き、僕に背を向けて駆け出した。その足音が波音に呑まれて耳に届かなくなった頃、僕はゆっくりと立ち上がってベンチの細川さんを見やる。海の照り返す日光が首の裏に当たって、やけに頭が火照っていた。
「細川さん」
ベンチに歩み寄る。血にまみれた左手を伸ばす。半田と同じように、僕の手を振り払ってくれることを期待して。
そして期待通り、細川さんは自分の右手で、僕の左手を軽く叩いた。
「違うの」
呆然と目を見開き、自分の取った行動が信じられないような顔をしながら、細川さんが言い訳を口にした。ベンチから立ち上がり、ふるふると首を振る。
「違うの。そうじゃない。そうじゃなくて――」
細川さんの両目から、涙がこぼれた。
「――ごめんなさい!」
細川さんが踵を返し、半田とは逆方向に走り去った。姿が消え、気配が消える。後に残ったぽっかりとした空白を、背後から聞こえる波の音が埋める。
潮風が僕の左手を撫でた。血飛沫が無人のベンチに飛び散り、青く塗られた木材に赤い斑点を作る。僕は首を大きく後ろに傾け、横隔膜を痙攣させて、乾いた笑い声を空に放った。
――要らない。
こんな世界は、こんな現実は、もう要らない。やっと心の底からそう思えるようになった。これで僕は兄ちゃんに会いに行ける。一緒にいられればどこだっていい。あの約束を果たすことができる。
笑いを止め、振り返る。広大な海が僕の視界を埋め尽くす。晴れ渡る青空を映す鏡となって輝く水面は皮肉にも、今まで見てきたどんな景色よりも美しく思えて、僕は自分でも気がつかないうちに、立ちすくみながら涙を流していた。
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