中学3年生、春(9)

 進む先から、波の音が聞こえた。

 そのまま足を進めると、小さな砂浜が姿を現した。道路から浜辺に下り、真っ黒な海に向かって歩く。アスファルトを歩き続けてボロボロになった靴下を脱ぎ、足首を海に浸して佇んでいると、ホットミルクに沈めた角砂糖みたいに爪先から溶けて消えてしまえそうな気がした。だけどもちろん、そんなことはない。足から伝わる冷たさが全身を覆い始めた頃、順当に水辺から離れて砂浜に腰を下ろす。

 これからどうしよう。考えようとするけれど、考えられない。未来のことを考えると思考が霧のようにぼやける。仕方なく過去に想いを馳せ、今と同じように優しい波音を聞き、今と違う夕焼けの海を眺めながら語られた言葉を思い返す。

 ――お前と一緒なら、どこでもいいよ。

 僕は、望み過ぎたのだろうか。

 一緒にいる。それだけで良かった。他のことなんて何一つ求めていなかった。それを望み過ぎだと言われたら、僕はどうすればいいのだろう。僕と兄ちゃんが出会ったところから人生をやり直せるとして、僕たちが幸せに生きる道はどこかにあったのだろうか。

 もし、兄ちゃんが僕にHIVを伝染さなかったら。

 それでも兄ちゃんはAIDSを発症する。そうなった時、兄ちゃんは間違いなく僕から離れようとする。感染者キャリアの自覚がない頃から僕を遠ざけようとしていたのだ。受け入れてくれるわけがない。もう手遅れになってしまった今よりも強く、僕を拒絶したかもしれない。

 なら、僕が兄ちゃんに告白していなかったら。

 それなら兄ちゃんは、AIDSを発症しても僕を拒絶することは無い。僕の想いに勘づいていても、跳ねのけるところまではやらないだろう。でも、じゃあ僕が告白した時にそれを受けてくれるかというと、そんなことはあり得ない。自分の命を武器にして、ようやく通した想いなのだ。通るわけがない。

 ――詰んでたんだなあ。

 改めて、ぼんやりと思う。僕の想いはこの世に生まれ落ちたその瞬間に、望み半ばで砕け散ることが決まっていた。そしてきっとそれは、僕だけに課せられた試練ではないのだろう。僕が男だったとか、生まれてくるのが遅かったとか、そういうこととは無関係に、叶わず散っていくことを運命づけられている想いがあちこちにある。

 例えば、細川さん。

 例えば、半田。

 人を好きにならなければいいのだ。期待しなければ裏切られることもない。だけど残念ながら、それも認められない。兄ちゃんのことを好きじゃない僕なんて、僕じゃない。兄ちゃんが僕を僕にしてくれたのだ。

 明日には、灰になってしまうけれど。

「……う」

 仰向けに寝転がる。夜空に広がる満天の星を眺めながら、両腕を大きく横に伸ばす。海風の飛ばした砂が顔に当たり、そのうちの何粒かが、頬を伝う涙に吸いついて皮膚をざらつかせる。

 綺麗だ。

 どうしてこんな日に、こんな時に、こんなにも綺麗な星空が広がっているのだろう。曇っていて欲しかった。星なんて一つも見えなければ良かった。綺麗なものは綺麗なものを呼ぶ。煌めきが涙で覆われた網膜を刺激して、大切な人と過ごした大切な思い出が、脳の奥から引きずり出される。

 ――どうして俺たちみたいな人間が、この世に生まれてくるんだろうな。

 分からない。分からないよ。どうして僕がこんな想いをしなくちゃならないのか、僕には全く分からない。

 ――俺は、地獄に行くよ。

 なら、僕も行く。天国のフレディより地獄の兄ちゃんを選ぶ。僕はそれでいいんだ。兄ちゃんと一緒に居られれば、どこだって――

 ――あの世に『QueenⅡ』が届くように、僕がちゃんと手配するよ。

 強い風が、僕の身体を撫でた。

 ゆっくりと上体を起こす。漆黒の海を見つめて呆ける。潮風が涙を乾かすにつれて、少しずつ、少しずつ、ついさっきまで考えることすら出来ていなかった未来の姿が、輪郭を得て形になっていく。

 そうだ。

 まだ、やることがあった。

 僕は靴下をはき直し、砂浜に立った。冴えた頭が波音をクリアに捉える。全てが終わったら、還っておいで。海がそう言ってくれているように、僕には聞こえた。

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