中学3年生、春(8)
葬儀場の近くまで来た時、外はすっかり夜になっていた。
運転手のおじさんが道端にタクシーを止める。僕が「一緒に来ますか?」と声をかけると、おじさんはゆるゆると首を横に振って「待ってるよ」と答えてくれた。信用されている。ありがたいけど、少し後ろめたい。タクシーに乗った時はとにかく移動手段が欲しかっただけで、運賃のことなんて全く考えていなかった。
タクシーを降りて、曲がり角を一つ曲がる。葬儀場の前に出ている兄ちゃんの苗字が書かれた案内板を見て、僕の心臓が大きく跳ねた。闇に浮かぶ真っ白な四角い建物を見上げ、胸に手を乗せて呼吸を整える。
靴下の向こうから、小石が足の裏を刺す。鈍い痛みが神経に乗って身体を巡り、内臓をぎゅうと押さえつける。こんなところでこんな風になっていて大丈夫なのだろうか。いざ眠る兄ちゃんを前にした時、僕は壊れることなくその場に立っていられるのだろうか。
――いや。
壊れてもいい。
兄ちゃんのいない世界のことなんて、気にしなくていい。
鼓動が落ち着いてきた。両手を強く握る。ごくりと唾を飲み、右足を前に踏み出す。
「君」
肩に置かれた手が、僕の歩みを止めた。
ゆっくり振り返ると、喪服を着た中年男性がしぶい顔をして僕をにらみつけていた。固い印象を抱かせる角ばった輪郭が父さんによく似ている。当たり前だ。数回しか会ったことはないけれど、ちゃんと覚えている。
この人は、父さんのお兄さん
兄ちゃんの父親だ。
「俺のことが分かるか?」
僕は小さく頷いた。向こうはめんどくさそうにため息を吐く。
「何しに来た」
「……兄ちゃんを、見送りたくて」
「ダメだ」
有無を言わせず希望を奪う。こういうやり口も、父さんに似ている。
「君には、本当に申し訳ないことをしたと思っているんだ」
父さんによく似た太い眉が、内側に強く寄った。
「うちのバカのせいで、君の人生をめちゃくちゃにしてしまった。人様の子に一生消えない烙印を背負わせてしまった。あいつが居なくなったからと言って、それを無かったことにするつもりはない。この罪は一生をかけて償わせてもらうつもりだ。だから、あいつのことはもう忘れてくれ。頼む」
兄ちゃんの父親が、僕に向かって深く頭を下げた。真摯な言葉。真摯な態度。だけどこの人はタクシー運転手のおじさんのように、僕を人間として認めて尊重してくれているわけではない。自分の思うように僕を動かしたいだけだ。父さんと同じように。
きっと、兄ちゃんにもそうだったのだろう。
兄ちゃんを自分の思うように動かそうとして、失敗して、捨てた。兄弟揃ってこうなのだから、もしかしたら父さんたちのさらに上の親が悪いのかもしれない。僕に物心がついた頃には亡くなってしまっていたから分からないけれど、そういえば父さんから自分の親についての話を聞いたことがない。あまり語りたくない思い出なのかもしれない。
でも、だからどうした。
そんなの、僕にも兄ちゃんにも、何の関係もない。
「バカはお前だろ」
冷たく言い放つ。兄ちゃんの父親が、ぽかんと目を丸くして固まった。
「お前が兄ちゃんを認めていれば、こうはならなかった」
目の前の男の顔が、ぐにゃぐにゃに崩れる。顔のパーツが混ざって、固まって、父さんの顔が出来上がる。
「お前が兄ちゃんから生きる気力を奪わなければ、兄ちゃんがこの世界に生きる価値を見出していれば、こうはならなかった。僕のことだってもっと慎重になったし、そもそも、HIVに感染するようなことをしなかったかもしれない。全部お前だ。お前がこうしたんだ」
分かってる。責めたってどうしようもない。だってこの男は「それでいい」と思っている。そうでなければ葬式の当日に「うちのバカ」なんて呼び方はしない。
きっと本音では葬式だって開きたくなかったのだろう。なのに世間体に負けて開いてしまう。悔やんでいないのに、悔やんでいるフリをする。そういうところも、本当に腹が立つ。
「お前だ! お前が兄ちゃんを殺したんだ! お前が――」
右頬に、鈍い衝撃が走った。
頭蓋骨の中で脳みそが揺れ、次に身体が揺れる。地面に倒れ込み、手をついて顔を上げると、よく似た顔が二つ並んで僕を見下ろしていた。兄ちゃんの父親と――
父さん。
顔を赤くした父さんが、拳をぷるぷると震わせる。誕生日の時も思ったけれど、どうしてこの人、いきなり殴るんだろう。獣を躾けるように、僕と接するんだろう。
「どうしてここにいる」
答えない。言わなくたって分かるだろ。そういう言葉を視線で叩き込む。
「お前がここにいることで、周りがどう思うか、分からないのか」
分かってる。でも関係ない。関係ないんだ、そんなこと。
「お前が、自分が何をしたのか、分かってるのか!」
「人を好きになった!」
叫び声に、叫び声をぶつける。父さんがわずかに顎を引いた。
「それだけだ!」
「――この!」
父さんが一歩、僕に向かって近寄ってきた。僕は起き上がり、父さんたちに背を向けて駆け出す。来た道を戻り、曲がり角を曲がってすぐ、ハザードランプを点灯させて停まっているタクシーが目に入った。
運転手のおじさんが窓を開け、タクシーの中から顔を出して来る。無視することも出来ず、僕は足を止めた。どう説明すればいいのだろう。考えているうちに、おじさんの方が先に動く。
「どうした」おじさんが、僕の頬に手を伸ばした。「泣いてるぞ」
おじさんの指が僕の涙を拭う。優しい手つきに、また涙があふれる。きっとこうしてくれる人が一人傍にいただけで、僕の人生も兄ちゃんの人生も全く違ったのだろう。だけどそんなこと考えたってどうしようもない。この人は、僕の人生とは交わらない人。
「すいません」
革靴がアスファルトを叩く音が、葬儀場の方から聞こえてきた。
「お金、払えません。これから僕を追って人が来ると思うので、その人に払って貰って下さい。お願いします」
頭を下げ、来た道を見やる。曲がり角を曲がったばかりの父さんと目が合う。僕はすぐに踵を返し、父さんの「待て!」という声を背中に受けながら、行く当てもなく夜の街を全速力で駆け出した。
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