中学3年生、春(4)
今まで訪れた中で、一番大きな病院だった。
受付で貰った面会バッジを、羽織っているジャケットの胸ポケットにつける。病院の廊下でデパートの紙袋を提げた女の人とすれ違い、何も持ってきていないことに少し気後れした。とはいえいきなり決めた上に、サプライズでお見舞い相手の状態が全く分からないのだから仕方ない。割り切って病室に向かう。
病室は六つもベッドが置いてある大部屋だった。入口の案内板によると、窓際のカーテンに覆われているベッドに兄ちゃんが寝ているらしい。父親のお見舞いに来たらしき家族連れが話し込む隣のベッドを通り過ぎ、窓側からベージュのカーテン越しに声をかける。
「兄ちゃん」
返事なし。もしかして、寝ているのだろうか。隣は結構うるさいから、眠るのも大変そうだけど。
カーテンを開けると、無人のベッドが僕の前に姿を現した。ベッドサイドのネームプレートには兄ちゃんの名前が書いてあるから、間違えているわけではない。トイレか何かだろうと、置いてあった丸椅子に腰かけて兄ちゃんを待つことにする。
ベージュのカーテン越しに、隣の家族の声が響く。何となく居心地が悪い。そわそわと落ち着かず、傍のキャビネットの引き出しを無意味に開けてしまう。
僕は、思いきり眉をひそめた。
最初に目に入ったのは、紫色のカバーをかぶせた兄ちゃんのスマホ。だけど問題はその下に敷いてある冊子だ。初めて見るものなのに、表紙を見ただけで、中身は何となく予想がつく。
冊子を手に取って開く。どくん、どくんと、心臓が早鐘を打つ。思っていた通りのものだった。これは、カタログだ。
お墓の。
「勝手に見るなよ」
顔を上げる。
病院服を着た兄ちゃんが、僕を見下ろしてニッと笑った。それからベッドの上に寝そべって上体を起こす。サプライズで来たのにサプライズをくらってしまった僕は、何と言えばいいか分からず、俯いてシーツの上に言葉をこぼした。
「ごめん」
「まあ、いいよ。そんなに気にするな」
――気になるよ。いくら何でも、スルーできない。
「お墓、買うの?」
僕に向かって、兄ちゃんが穏やかな微笑みを浮かべた。
悪寒が走る。僕は攻めたつもりだった。兄ちゃんの真意を探ってやろうと、そういう想いで言葉のナイフを投げた。だけど兄ちゃんは――避けなかったし、守らなかった。
「っていうか、だいぶ前に買った」
動揺しているところを見せてはいけない。そう思っているのに、まぶたが大きく上がるのを止められない。
「何があるか分からないからな。買っといて損はないだろ」
「……家のお墓は?」
「入れない。そうじゃなきゃ墓なんて買わないさ。見舞いにだって、ほとんど来てないからな」
――それは、僕のせい?
言わない。違うと答えるに決まっているから。でも、きっとそうだ。ただ同性愛者なだけだったら、そこまでの仕打ちは受けていない。
「ところでお前、こんなところまで来て大丈夫なのか?」
「うん。友達に協力して貰ったんだ。スマホはその友達に渡してある」
「そっか。お前にもそういう友達ができたんだな。良かった、良かった」
兄ちゃんがうんうんと頷いた。できてないよ。言いかけて、黙る。
「そういや誕生日、悪かったな」
話題がいきなり変わった。兄ちゃんがふっと目を逸らす。
「一年に一回の記念日なのにな。こんなことになるとは思ってなかった。本当に申し訳ないと思ってる」
いいよ。前も言ったでしょ。これからも何回だってチャンスはある。あるんだ。
「遅くなるけど、退院したらパッと祝ってやるよ。生まれて来て良かったーって思えるような誕生日にしてやる。だから、許してくれ」
痩せこけた頬を引きつらせて、兄ちゃんが朗らかに笑った。僕は腿の上に乗せた手を強く握る。兄ちゃんは約束は守る人だ。だから退院したら本当に誕生日を盛大に祝ってくれるだろう。そして、だから、約束したらやらなくてはならなくなるから、それより未来の話は何も言わない。
「兄ちゃん」顎を、グッと上げる。「キスしたい」
おしっこ行ってくるー。
カーテン越しに、小さな子どもの声が聞こえた。こっちから聞こえると言うことは、あっちにも聞こえているのだろうか。聞こえているならば、今の言葉を聞いてどう思っただろうか。お見舞いに来た方はともかく、お見舞いされている方は、ここにいるのが大人の男性だと知っているはずだ。
真っ直ぐに兄ちゃんを見つめる。ごまかさないで欲しい。ちゃんと受け止めて欲しい。そういう想いを視線に込める。
「……分かった」
兄ちゃんが、ゆっくりと動き出した。
ベッドの縁に腰かけて、椅子に座る僕と向かい合う。随分と細くなってしまったけれど、それでも僕よりはまだ大きい。圧迫感がある。
兄ちゃんが背中を曲げる。兄ちゃんの顔が僕に近づく。視界のほとんどが兄ちゃんで埋まり、僕は目を閉じて暗闇に逃げ込む。
乾燥した皮膚の感触が、唇を撫でた。
兄ちゃんとのキスって、こんなに湿り気のないものだっただろうか。思い出そうとするけれど、前のキスが昔すぎて思い出せない。どうしてこうなってしまったのだろう。僕も兄ちゃんもあの頃と何も変わっていない。気づいてなかったことに気づいた。それだけなのに。
兄ちゃんの唇が離れた。僕はまぶたを上げ、兄ちゃんの胸に頭を寄せる。兄ちゃんの心臓の鼓動と、僕の頭を撫でる兄ちゃんの声が、左右の耳から入って脳で合流する。
「どうして俺たちみたいな人間が、この世に生まれてくるんだろうな」
独り言だ。そう思った。だから僕は撫でられるまま、口をつぐむ。
「せっかく進化して雄と雌と別れたのに、こんなのが残ってたら台無しだろ。でも人間だけじゃなくて、他の生き物でも残ってるんだよな。なんでなんだろう。なにか、意味があるのかな」
いいじゃん。そんなの、どうだって。兄ちゃんは僕のために生まれてきたんだよ。そして僕は兄ちゃんのために生まれてきた。それでいいんだ。それで何も困ることはない。
「兄ちゃん」
一つ、気になることがあるんだ。聞いてもいいかな。この前、一緒に桜を見に行った時から、ずっと疑ってることがある。
兄ちゃん。
ちゃんと、治療してる?
分かってるよ。見つかった時にはもうとんでもないところまで影響が進んでいたのも、治療にすごくお金がかかるのも分かってる。だけどやっぱり、早すぎる気がするんだ。痩せるのも、入院するのも、お墓を買うのも。
ちゃんと生きようとしてくれてない。
そんな気がする。
「――なんか、薬くさい」
兄ちゃんの手が止まった。僕は上目づかいに兄ちゃんを見やる。やがて兄ちゃんは浮かせていた手をまた僕の頭に乗せると、どこか幸せそうに唇をほころばせた。
「ごめんな」
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