中学3年生、春(2)
三年生になって、半田とも細川さんともクラスが分かれた。
おかげで自分からわざわざ僕の相手をする人間は、クラスに誰もいなくなった。僕から誰かに話しかけることは元からないので、完全に空気だ。勉強は教科書を読んでいればだいたい分かるし、学校に来る意味があるのだろうかと考えてしまう。
班ごとに食べる給食でもほとんど会話はなし。給食の後は文庫本を持って図書室に向かう。昼休みに図書室まで来るやつは多くないし、いても僕と同じように学校に馴染めない人間ばかりだ。教室にいるよりはずっと落ち着く。
昼休み残り五分、僕は図書室を出た。一階の図書室から四階の教室まで、階段を一段上るたび、学ランのポケットに入れている文庫本の重さを感じる。重さで身体を下に引っ張られて、上がらずに戻ろうと言われているような気分になる。
四階に着く。教室に戻る前に用を足しておこうと、僕は階段から廊下に出て、トイレのある左に向かった。そして廊下の向こうから歩いて来る半田を見て顔をしかめ、半田も僕を見て全く同じ表情をする。
トイレの前でちょうど半田と合流する。なんでこいつと連れションしなきゃならないんだろうと思いつつ、僕が先にトイレに入った。トイレに入ってすぐ、洗面台の鏡に映る自分の顔があまりにも不機嫌丸出しで、自分でもおかしくなる。
鏡の中の半田が、僕の学ランの襟を掴んだ。
そのまま思い切り僕を引っ張って、廊下に放り出す。僕は背中から廊下から倒れ込み、後頭部を思い切り固い床にぶつけた。痛む頭を抑えながら、僕を見下ろす半田に喰ってかかる。
「なにすんだよ」
「ホモと一緒にトイレ行けるわけないだろバーカ」
わざとらしく、半田が大声で僕を馬鹿にした。廊下を歩く他の生徒たちが僕たちの傍で足を止める。僕は立ち上がり、言い返した。
「じゃあ男子トイレ使うの止めたら? 誰がゲイかなんてお前には分からないだろ」
「はあ? キモいんだよホモ。女子トイレ行け」
思った通り、話が通じない。理屈なんかどうでもいいのだ。嫌いだから排除するだけ。半田が正しいとは思わないし、屈する気もないけれど、本当に心の底からめんどくさくて、兄ちゃんが自分を隠したがる気持ちが分かる。
「半田くん」
女子の声で苗字を呼ばれ、勢いよく半田がそちらを向いた。僕もゆっくりと首を回す。眼鏡の奥から半田をにらみつける細川さんが、厳しい口調で言葉を放った。
「どうしてそういうことするの?」
半田が怯んだ。理屈なんかどうでもいい半田には、嫌いな相手の言葉は無条件で届かないし、好きな相手の言葉は無条件で届く。
「同性が好きなのと半田くんが好きなのは違うでしょ。同性なら誰でもいいわけないし、自意識過剰だよ。わたしはそういうの、間違ってると思う」
間違ってる。細川さんがはっきりとそう言い切った。半田が僕と細川さんを順々に見て、苦々しげに唇を歪める。
「意味わかんね」
捨て台詞を吐き、半田が教室の方に去って行った。トイレはいいのかよ。そんな煽りが思い浮かび、話が長引くだけなので言わないでおく。細川さんが僕に歩み寄り、薄く笑いながら話しかけてきた。
「余計だった?」
「そんなことないよ。ありがとう」
気になるところはあったけど。――言わない。言う必要はない。
「それじゃ、また」
僕は軽く手を挙げ、細川さんから離れてトイレに向かった。一番奥の小便器で用を足し、洗面台で手を洗う。鏡に映る自分の顔は妙に疲れていた。半田の相手をしていただけなら、きっとこうはならなかっただろう。良くも悪くも。
――同性が好きなのと半田くんが好きなのは違うでしょ。
じゃあもし、僕が半田のことを好きだったら?
僕は確かに半田に全く興味はない。だけどそれはたまたまだ。学校に好きな相手がいて、そいつに告白してカミングアウトするパターンだってある。というか、僕のカミングアウトよりそっちの方がずっと多いだろう。細川さんの理屈だと、そういうシチュエーションに対抗できない。
結局、半田も細川さんも同じ基準で考えていることに変わりはない。ダメなのはじろじろ見たり嫌がる相手に手を出したりすることなのに、そういう個々の行動ではなく「同性愛者だから」トイレに入っていいか悪いか議論しようとしている。
でも同性愛者じゃなくたって、例えばインターネットで動画を売るためにトイレの盗撮をするようなやつがいたら、それは問答無用でアウトだろう。同性愛者をトイレから排除してもそういうやつは素通り出来るし、そもそも僕が半田に言ったように誰が同性愛者なんて分からないのだから、悪いことを考えているやつがいたとしても黙っていれば問題なく入れる。だから属性を基準の議論なんて無意味だ。なのにそうしたがるのは、きっとその方が簡単だから。
世界を、簡単にする
カミングアウトしてから「簡単にされている」と感じることが多い。予想はしていたけれど予想以上だ。ジュンはこの現象を物理の問題で摩擦を無視するようなものだと表現していたけれど、まさにその通りだと思う。解けないから解けるようにする。そして分かったフリをする。前提があり得ないから思考実験にしかならないのに、世の中はそういう風に動いているように、動くべきであるかのように振る舞う。
――下らない。
僕は蛇口をひねって水を止め、ハンカチで手を拭いた。そして両手で両頬をぴしゃりと叩き、気分を入れ替える。下らないことは考えなくていい。考えない方がいい。僕を簡単にしていいのは、僕だけだ。
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