中学3年生、春(1)

 頬に当たる海風の温さに、春の気配を感じた。

 ベンチに座り、輝く大海原を見つめながら、今何時ぐらいだろうと考える。スマホを置いてきたところまではいいとして、代わりに腕時計をしてくるべきだった。あるいは時間の分かる場所で待ち合わせをするか。海浜公園にしても別の場所なら時計があったのに。海を見ながら待ちたいと思ったのは僕だから、誰にも文句は言えないけれど。

 結局、兄ちゃんと桜を見に行く約束は春休み最終日までもつれ込んでしまった。とはいえ今日父さんと母さんが両方とも留守にならなければ、そもそも行けていなかったかもしれないから、最悪の事態は回避できたと喜ぶべきだろう。監視アプリの入っているスマホを携帯せず、こっそりと家を出てこっそりと家に戻る。それだけのことがこれほどまでに難しいとは思わなかった。

 目をつむり、視覚を断つ。嗅覚と聴覚を研ぎ澄ませ、潮の匂いと波の音を味わう。海は好きだ。圧倒的にスケールが大きくて、自分の抱えている悩みが相対的に小さく思えてくる。死ぬ時は海で死にたい。たまに、そんなことを考えたりする。

「お待たせ」

 懐かしい声が聞こえた。振り向き、姿を見る前に「兄ちゃん」と言葉を放つ。

 そして、固まる。

 兄ちゃんは笑っていた。だけど、僕は笑い返せなかった。明らかに、前より兄ちゃんの顔が痩せこけていたから。検査のために一緒に病院に行った時も痩せたと思った。でも今回はそれとは次元が違う。削ってはいけないところまで削れているのが、見た目で分かる。

「……痩せた?」

 恐る恐る尋ねる。兄ちゃんは笑顔を崩さずに答えた。

「少しな」

 前も同じことを聞いて、同じ返事が来たことを唐突に思い出す。兄ちゃんが親指を立て、駐車場のある方を示した。

「早く行こう。あまり時間ないんだろ?」

 僕は「うん」と頷き、ベンチから立ち上がった。そして兄ちゃんと公園の中を歩き、駐車場に向かう。歩いている間、兄ちゃんはやけに口数が多く、次から次へと僕に話題を振ってきた。

「期末の成績はどうだった?」

「志望校とか、もう決まってるのか?」

「この前のブログ、面白かったぞ」

「お前、文章上手いよな。最近はどんな本読んでるんだ?」

 自分のことを聞かれないようにしている。

 そんな風に、僕は思った。


     ◆


 兄ちゃんは僕を車に乗せ、日本のさくら名所百選に選ばれている公園に連れて行った。

 動物園に遊園地に市民プールまである公園はとんでもなく広く、そしてとんでもなく人が多かった。これだけ混んでいると風情も何もあったもんじゃない。だけど兄ちゃんと並んで見る桜は綺麗で、そして何より、楽しかった。

 小高い丘を登り、頂上の展望台に辿り着く。たった二階分の高さしかなくて、望遠鏡があったりするわけでもない吹きさらしの小さな展望台だったけれど、上がってみると人はびっくりするぐらいたくさんいた。だけど男二人で来ているのは僕たちだけ。周囲を見渡し、兄ちゃんが居心地悪そうに呟く。

「なんか俺ら、場違いだな」

「気になる?」

「ちょっとな」

 兄ちゃんと鉄柵の前に並ぶ。桜と、街と、海が、一つの景色になって視界に収まる。スマホがないから写真を撮れないのが残念だ。せめて網膜に映像を焼きつけようと目を凝らす。

「……ん?」

 兄ちゃんが不思議そうに鉄柵の下の方を覗き込んだ。僕も同じところに視線を向け、鉄柵の一本一本に南京錠が大量にかけられているのを発見する。何だろう。とりあえず間違いなく、鍵ではない。

「なにこれ?」

「たぶん、願掛けだろうな」

「願掛け?」

「そう。恋愛関係のスポットで、カップルが金網や柵に二人で一つの南京錠をつける願掛けがよくあるんだ。ここは恋愛関係のスポットじゃないけど、トレビの泉じゃなくても池に硬貨を放り込むやつはいるからな」

「なんで南京錠をつけるの?」

「鍵をかけることで、二人の愛が永遠になるって理屈らしい」

「だから、なんで? 何に鍵をかけてるイメージなの?」

「……さあ」

 兄ちゃんが目を逸らす。困らせてしまった。まあこの手のおまじないは得てして非論理的なものだ。理屈で説明しようとすること自体が野暮なのかもしれない。

「南京錠、いつも持ち歩いてるのかな」

「園内のどこかで売ってるんじゃないか? 持ち込みじゃないだろ」

「そっか。じゃあ、僕たちもやる?」

 僕は兄ちゃんに、明るく笑いかけた。

「南京錠買って、僕たちもつけよう。それで来年まだついてるかどうか見に来ようよ。鍵が外れてないか定期的に確認するためには、付き合い続けるしかないでしょ。たぶんこれ、そういう仕組みだと思うんだ」

 気軽に乗れるよう、軽い口調で話を進める。だけど兄ちゃんはやけに真面目な顔で僕を見ていた。やがて景色の方に向き直り、寂しそうに目を細める。

「止めておくよ」やつれた頬に、陽光が当たる。「来年も来られるかどうか、分からないしな」

 だからだよ。

 だから言ったんだ。願掛けって、そういうものだろ。出来ないかもしれないことをやると誓う、その意思を示すためのものだろ。どうしてそれすらしてくれないんだろう。どうしてそこまで、僕を切り離そうとするんだろう。

 もしかして――

「兄ちゃん」

 兄ちゃんが僕の方を向いた。落ち窪んだ眼窩に見つめられ、僕は言いかけた言葉を飲み込む。

「誕生日のお祝いは、してくれる?」

 一年後の話を引っ込めて、一ヶ月後の話を持ち出す。いきなり変わった話題に、兄ちゃんがきょとんと目を丸くした。

「気が早いな」

「早くないよ。あと一ヵ月ぐらいしかないんだから」

「ああ、そうか。もうそこまで来てるんだな」

 兄ちゃんがしみじみと呟いた。そしてまぶたを細めて、優しく笑う。

「大丈夫。それは祝うよ。だから、心配するな」

 大丈夫。心配するな。――やっぱり、ちゃんと僕の気持ちを理解している。理解して、自覚的に距離を置こうとしている。

 人の心を動かすには、新しいものを見せる必要がある。「そんなことは考えていなかった」でも、「そこまでとは思っていなかった」でもいいから、想定の範囲外を示さなければならない。だけど、どうすれば兄ちゃんにそれを示せるのか、見当がつかない。

 僕にできること。

 僕が示せるもの。

「――絶対だよ」

 強く言い切り、僕は景色に目を向けた。隣から「分かった」とか「任せろ」とか、そういう言葉が返ってくるのを期待する。だけどいつまで経っても返事はなく、やがて放たれた言葉は、「そろそろ行くか」だった。

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