中学2年生、冬(5)

 僕と半田の争いは、放課後にお互いの親を呼び出される事態にまで発展した。

 お互い傷ついていないから喧嘩の件は大したことなかったけれど、落書きされた机がごまかせなかった。もっとも僕としてはごまかす理由もないので、これまでの経緯をお互いの親と先生の前で全て正直に話した。担任の先生は僕の話を聞きながらずっと「そんなことがあったなんて」みたいな顔をしていて、細川さんも僕も一度相談してますけど、と嫌味を言ってやりたい気分になった。

 僕の方は母さんしか来なかったけれど、半田の方は家が自営業なのか父親も母親も両方来ていた。そして半田は両親からめちゃくちゃに叱られ、最後には半泣きで僕に謝罪をしてきた。僕は謝罪を受け入れ、場は丸く収まったことになって解散。母さんと歩いて家に帰った。

 家に向かう道を歩きながら、母さんがすねたように呟く

「言ってくれれば良かったのに」

 イヤだよ。母さんに言えば父さんに伝わる。今日のことだって、黙ってて欲しいって頼んでも伝えるんだろ。母さんは一人では何も決められない人だから。

「言ったって、どうにもならないし」

 冷たく突き放す。母さんは何も言わず、顔を背けて黙った。親なのに本当にどうにもならないと思ってるんだな。自分で言ったことだけど少し驚く。

 家に着いた。いつものように部屋に行き、真っ先にパソコンをつける。だけどジュンも兄ちゃんもいつまで経ってもオンラインにならない。そのうちに先に父さんが帰って来て、すぐに母さんが一階から僕を呼んだ。

「ご飯だから、下りて来なさい」

 僕はしぶしぶ一階に下りた。父さんに何を言われても無表情を貫こうと、眠りに落ちる寸前ぐらいまで意識をぼやけさせる。だけどリビングに入って父さんの顔を見た瞬間、その決意はあっけなく崩れ去った。

 食卓の椅子に座っている父さんが、僕の顔を見て嬉しそうに笑った。

「おう。来たか」

 心の底から戸惑う。確かに今回の僕はどっちかといえば被害者だから、少し小言を言われるぐらいだろうとは思っていた。ただ上機嫌なのは予想外だ。何が嬉しいのか分からない。

 食卓にはカレーが三つ並んでいた。父さんと母さんは横に並んで座っていて、残る一つは父さんの向かい。僕がそのカレーの前に座るなり食事が始まり、父さんはすぐ僕に話しかけてきた。

「母さんから聞いたぞ」元気な声。「女を巡って、友達と喧嘩したらしいな」

 ――なるほど。

 母さんがどういう説明をしたか知らないけれど、父さんの中ではそういう風になっているのか。どうりで上機嫌なわけだ。息子がやっと男になってくれたとか、そんなことを考えているのだろう。

「女の子は、昨日お見舞いに来てくれた子なのよね」

 母さんが話に乗っかった。ある意味、父さんより腹が立つ。父さんの勘違いは伝言ゲームの結果だとしても、母さんは僕の口から説明を聞いているのに。

「あの子はそういうのじゃないって言ったよね?」

「でも、あの子の方は好きなんじゃないの? そうじゃなきゃお見舞いになんて来ないと思うな」

「そうだな。いっそ付き合ってみるのも悪くないと思うぞ。こういうのは試しながら、手探りで進んでいくものなんだ」

 父さんが自分の言葉にうんうんと頷いた。僕の苛立ちが最高潮に達する。

「ありえないよ」言葉を吐き捨てる。「今日、勢いでカミングアウトしちゃったから」

 電灯のスイッチを消すみたいに、父さんの顔から笑みが消えた。

 呆ける父さんを無視して、僕は黙々とカレーを口に運んだ。そのうち父さんが我を取り戻し、また新しい感情を芽生えさせる。喜怒哀楽の喜が消え、次に現れたのは、怒だった。

「どういうことだ」

 女の子を巡って喧嘩するのは喜び、カミングアウトは怒る。本当に分かりやすい。

「教室で喧嘩してる時、勢いで言ったんだ。女の子に全く興味ないのに、女の子のことで揉めるのバカみたいだから。だからもう、クラスメイトみんな知ってる」

 全く、に力を込める。父さんがテーブルを拳でガンと叩いた。隣の母さんの両肩が大きく上下する。

「何てことをしてくれたんだ」

 何てことって、カミングアウトだよ。それ以上でもそれ以下でもない。いい加減に理解しろよ。現実から目を逸らし続けていたって、現実が変わることはないんだ。

「くそっ」髪をかきむしり、父さんが悪態をつく。「こんな風に公にならないよう、あいつを警察に売らなかったってのに」

 ――そんなことだろうと思った。でもそのズレた考えには感謝したい。そうでなければ僕と兄ちゃんは今ごろ、もっとずっと大変なことになっていた。

「大丈夫よ。クラスの子なんて、そんなに多くないから」

「しかし、世間は狭いぞ。どこから漏れていくか――」

 父さんと母さんが僕を心配する。目の前の僕のことなんか、まるっきり無視をして。僕は早く食事を終えてこの場から出て行きたい一心で、スプーンの上にこんもりとカレーをよそった。


     ◆


『言ってくれれば良かったのに』

 数時間前に耳から入った母さんの言葉が、今度は文字列になって目に届いた。だけど受ける印象は全く違う。理由が違うからだ。母さんに言わなかったのは言っても無駄だと思ったから。兄ちゃんに言わなかったのは、言ったら迷惑をかけると思ったから。

『一人で抱え込むのは良くないからな。自分のことを一番に考えろよ』

『考えてるよ。僕が僕の意志で言わないって判断したんだから』

『だから、そういうところだっての』

 どういうところだよ。打ち込みかけて、水掛け論になりそうなので止めた。代わりに矛先を逸らす。

『抱え込むのは、兄ちゃんも同じでしょ』

 返事が途切れた。しばらく待った後、そこまで考えなくても送れそうなメッセージが表示される。

『俺は違うよ』

『どうして』

『ビビりなだけだから』

 よく分からない返事が来た。僕が意味を考えている間に、次のメッセージが届く。

『お前、カミングアウトしたんだろ?』

『うん。でも兄ちゃんのことは話してないから安心して』

『それは気にしてない。俺が言いたいのは、そういうところが俺と違うって話。俺にそれは出来ない』

『でも兄ちゃん、家族に言ってるじゃん』

『言ったんじゃない。バレたんだ。バレた時は大変だったんだぞ』

 だろうな、と納得する。兄ちゃんの父親含めて、僕は父さんの親戚とあまり話したことはない。だけど父さんを見れば、どういう一族なのかはだいたい想像がつく。

『俺は抱え込んでるんじゃない。自分をさらけ出すのが怖くて、ビビってるんだ。だから俺はお前とは違う』

 ――そこは上手く合わせているから。

 いつかジュンが送ってきたメッセージが、ふと脳裏に思い浮かんだ。やっぱり兄ちゃんとジュンは似ている。そして僕とは違う。その理由が今、少し見えた。

 要するに兄ちゃんとジュンは、自分のことが嫌いなのだ。

 だから他人に認められることを重要視する。他人の引いた線に拘る。自分勝手に線を引いて、好きなように生きようとは思えない。誰かに「ここにいてもいいよ」と言われるのを待っていて、自分から「ここにいるぞ」と宣言する気にはならない。

 なら、兄ちゃんが僕から離れようとするのは当然なのかもしれない。だって僕は兄ちゃんと一緒に「ここにいるぞ」と宣言したいのだ。子どもだから抑えているだけで、そうじゃなかったら今も兄ちゃんと一緒にいる。兄ちゃんからしたらそういう僕は怖いだろう。自分をさらけ出すことを、何よりも恐れているのだから。

 それでも――

『ねえ、そろそろ一度会えない?』

 話を切り替える。返事を待たずに、一息に続ける。

『僕も中三になるし、いい区切りでしょ。どこかに桜とか見に行こうよ』

 断られたらどうしよう。そんな恐怖で鼓動が早まった。兄ちゃんが世界に認められないことを恐れるように、僕は兄ちゃんに認められないことを恐れている。僕にとっては兄ちゃんこそが世界なのだ。

 短い返事が、僕の視界に飛び込んできた。

『そうだな』

 僕は右手をグッと握った。無かったことにされないよう、すさかず『どこ行く?』と打ち込んで予定を立てる流れにする。やがて春休みになったら花見に行くことが決まり、それから少し話をして、その日のやりとりは終わった。

 椅子の背もたれに身体を預け、ふうと息を吐く。今日は色々なことがあった。でも兄ちゃんと会う約束が出来たからトータルプラス。そんな風に割り切ろうとして、だけどちょっとした引っかかりが拭えず、思考にモヤがかかる。

 ――俺はお前とは違う。

 僕は兄ちゃんがいればそれでいい。だけど兄ちゃんは、そうではない。

 兄ちゃんが世界から好かれたがっている限り、兄ちゃんは僕から離れていく。僕を愛するのは世界に背く行為だから。じゃあ、どうすればいいのだろう。どうすれば兄ちゃんは自分を好きになってくれるのだろう。

 ノートパソコンに視線を戻すと、二人しかいないメッセンジャー仲間の片方が、オフラインからオンラインに切り替わっていることに気づいた。今日は遅かったね。デートかい? そんな気分でメッセージを送る。

『やあ』

 対話が始まる。僕は十四歳から二十歳に成長する。これぐらい簡単に大人になれればいいのに。僕を年上のお兄さんと信じ込んでいるジュンと話をしながら、僕はふとそんなことを考えた。

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