中学2年生、冬(4)
翌朝、起きてすぐに体温を測った。
結果は平熱。もう一度測ってみたけれど、むしろ下がってしまった。諦めて身支度を整えて学校に向かい、コートのポケットに手を入れて歩きながら、昨日の細川さんとの会話を思い返す。
――半田くんと揉めちゃった。
半田が細川さんに怒られてしおらしくなるようなやつなら、最初からこんなことにはなっていない。だから僕は細川さんを止めたのだ。細川さんは半田の気持ちも分かると言ったけれど、もうあいつの目的は細川さんに好かれたいとか、そういうものではない。
憂鬱な気分のまま、昇降口につく。とりあえず上履きには被害なし。僕はローファーを無防備なまま下駄箱に置いていくか、鞄に入れて保護するか悩んで、半田のために余計な労力を使うのがイヤだという理由で後者を選んだ。上履きに履き替えて校舎の中を進み、教室の扉を開いた瞬間、眉間に思い切りしわが寄る。
僕の机が、黒い。
近寄って確認すると、机に黒マジックでこれでもかと罵詈雑言が書き込まれていた。バカとか、アホとか、キモイとか、死ねとか、幼稚園児でも思いつきそうな悪口ばかり。指を舐めて机を撫でても、文字はかすれず指にマジックもつかない。油性マジックだ。
僕は教室をざっと見渡した。ニヤけ面で僕を見ている半田グループ以外、僕に見られるなり軒並み目を逸らす。まあ、そうだろう。みんな、この大げさすぎて芝居の小道具にも使えなさそうな悪趣味な机を、誕生から今までずっと放置していたのだ。僕の他人に対する関心のなさが招いた事態だから、責める気はないけれど。
――さて。
コートと鞄を机に置き、半田たちのところへ向かう。油性マジックであそこまでやられたら、もうどう頑張っても隠しようがない。宣戦布告と見ていいだろう。ならば受けて立つ。前みたいにこっちから先生に言うのではなく、先生の方から介入せざるを得ないよう、出来るだけ大事にしてやる。
「おい」椅子に座る半田の、目の前まで来た。「あれ、綺麗にしろよ」
半田が「あれって?」と唇を陰険に歪めた。そこからやらせるのかよ。めんどくさいな。じゃあ、こうしてやる。
「言わなくても分かるだろ」
ガンッ!
僕は半田の机を思い切り蹴り飛ばした。激しい音と共に机が倒れ、上に乗せていたものと中身が床にバラバラと散らばる。教室中の注目が僕たちに集まる中、半田がゆっくりと立ち上がって僕をにらんだ。
「喧嘩売ってんの?」
僕はにらみ返さない。下卑た笑いを浮かべ、半田を小馬鹿にする。
「売ってたらどうすんの?」
半田の右手が、僕の学ランの襟を掴んだ。すぐに飛んできた左の拳を右手で受け止めると、押された勢いで上体が少し後ろに傾く。僕は左手を伸ばして半田の学ランを掴み、倒れる身体を支えようとした。
だけど半田はそのまま、僕を押し潰すように前に倒れ込んできた。
半田ごと真後ろに倒れる。後頭部に椅子がガツンとぶつかり、僕は思わず呻き声を上げた。痛みに顔をしかめて狭くなった視界に、僕に馬乗りになった半田の血走った目が映る。
「半田くん!」
甲高い声が、教室を揺らした。
半田の勢いが分かりやすく削がれた。声の主、細川さんが半田をにらむ。それから僕たちと僕の机を交互に見て、寂しそうに呟いた。
「なんでそういうことするの?」
半田がグッと顎を引いた。細川さんはさらに続ける。
「昨日言ったこと、何も分かってなかったの?」
違う。半田は分かっている。分かっていて、それよりも自分の感情を優先しているだけだ。分かっていないのは細川さんの方だ。自覚のあることをどれほど言われたって、心を改めるわけがない。
半田が、唇の端を吊り上げて笑った。
「二人はもうセックスしたの?」
――ああ。
「……え?」
「付き合ってんでしょ? こいつのちんこどう? 包茎?」
こいつは、こういうやつらは、どうしてみんなこうなんだろう。男は女と、女は男が好きだと決めつけて、男と女が一緒にいれば勝手にくっつけて。本当に、本当に鬱陶しい。
「してるわけないだろ」もう、いいや。「僕、女に興味ないし」
半田が僕の方を向き、大きく目を見開いた。僕はその胸を強く押し、半田を突き飛ばして身体を起こす。そして床に転がる半田の上に、今度はこっちが馬乗りになり、言葉を吐き捨てた。
「ウザいんだよ」
頭が痛い。ズキズキする。言葉を選ぶ余裕が無い。
「お前も、お前みたいなやつも、みんなウザいんだ。それが正しいみたいな、そうなるのが自然みたいな顔して。知らねえよ。お前らだけで勝手にやってろよ。僕をそこに入れようとするな」
右の拳を掲げ、仰向けの半田に見せつける。怯えた表情の半田を見下ろす僕の胸に、ドス黒い感情が湧いてくる。こいつを壊したい。こいつを壊して、その先にあるものも一緒に破壊して、それで――
右腕を、グイと後ろに引かれた。
振り返る。僕の右腕を掴んでいる細川さんが、首をふるふると横に振った。
「ダメだよ」
細川さんは涙目になっていた。きっと分かっているのだろう。「お前みたいなやつ」の中に、僕に想いを寄せた自分が入ってることを。
「ダメ」
僕は右腕を下ろした。細川さんが胸を撫で下ろし、目尻から溜まっていた涙がこぼれる。椅子と机の倒れる音を聞きつけたのか、隣のクラスの先生が教室の中に入ってきて、「どうした!」と声を荒げた。
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