中学2年生、冬(3)
風邪を引いた。
と言っても熱は37度台だし、症状も少し喉が痛いぐらいで大したものじゃない。だけど学校は休んだ。本当は学校なんて毎日休みでもいいと思っているぐらいなのだ。無理をする理由はないし、無理をしろと言われても断る。
幸い、風邪と呼ぶのも大げさな体調不良だけど、母さんから「学校に行け」と言われることは無かった。それどころか病院に連れていかれ、診察を受けて薬を処方された。理由は分かる。免疫力の落ちるウィルスに感染しているのだから、たかが風邪でも大事になるかもしれないと考えたのだろう。今の僕の免疫力は非感染者と何も変わらないし、薬の飲み合わせぐらいしか気にすることはないけれど、心配になるのは分かる。
「ちゃんと寝てなさいよ」
病院から帰って来た後、部屋に向かう僕に母さんがそう声をかけた。僕は「分かった」と頷き、そして言われた通り、食事とトイレ以外は大人しく横になっていた。僕は、父さんはもちろん、父さんの味方ばかりする母さんも好きではない。だけど衝突が起きていない場面で、わざわざ反抗しようとは思わない。
薬を飲み、昼寝をして起きたら、学校が終わる時間を過ぎていた。体感的に熱はない。喉の痛みも完全に引いている。明日も休むのは無理そうだ。残念。
僕はベッドから起き上がり、ノートパソコンを開いてメッセンジャーを覗いた。社会人の兄ちゃんがまだオフラインなのは当然として、高校生のジュンもオフラインだ。仕方なく、テキストツールを開いてブログの記事を書く。
下の階からインターホンの音が聞こえた。母さんが対応するだろうと気にせず文字をタイプしていたら、今度は階段を上ってくる足音が聞こえてくる。僕が「おや」と手を止めると足音も部屋の前で止まり、ドアをノックする音とドアの向こうから話しかけて来る声が、立て続けに耳に届いた。
「入っていい?」
細川さん。僕は困惑しながら「いいよ」と答えた。すぐにドアが開き、制服姿の細川さんが部屋の中に入ってくる。
「どうしたの?」
「休んでたから、プリント持ってきた」
「そんな大事なプリントなの?」
「……別に、そういうわけじゃないけど」
細川さんが床に正座して、顔を伏せた。僕は細川さんの向かいに座る。細川さんは鞄からプリントを一枚取り出して床に置き、ぼそぼそと語り出した。
「あと、報告しなきゃいけないことがあって」
「うん」
「半田くんと揉めちゃった」
細川さんが上目づかいに僕を見やった。そのまま、申し訳なさそうに語り出す。
「あのね、休みなのをいいことに、半田くんが机とかロッカーとかにめちゃくちゃ悪戯しようとしてたの。友達とどんな嫌がらせするか楽しそうに話してて、わたし、それ聞いて我慢できなくて、怒っちゃって……」
「なんて怒ったの?」
「……そういうことする人なんて、死んでも好きにならないとか」
それはクリティカルヒットだ。とはいえ言ってしまったものは今さらどうしようもない。僕がひとまず「分かった」と頷くと、細川さんが視線を下げてポツリと床に呟きをこぼした。
「ごめんね」
謝罪。謝られる理由が分からなくて、反応が遅れる。
「なんで謝るの?」
「自分でどうにかするって言ってたのに、口挟んじゃったから」
ああ、そういえば言ったかもしれない。ただ――
「それが分かってるってことは、細川さんは僕のためじゃなくて、自分が腹立ったから半田に怒ったってことでしょ?」
「……うん」
「じゃあしょうがないよ。僕は『あなたのためにやりました』みたいな、恩着せがましい言い方をされるのがイヤなだけなんだ。僕のためにやったんじゃなくて、自分のためにやったなら、それは別に問題ない」
「そうなの?」
「そう。自分じゃない誰かのために動いたなんて言う人は、その『誰か』に責任を押し付けたいだけなんだよ。上手くいけば手柄は自分のもの、失敗したら責任は自分を動かした『誰か』のせいってね」
淡々と言い放つ。細川さんが「そっか」と呟き、膝の上に乗せた手を握った。
「でもわたし、分かるよ」震える声が、震える身体から放たれる。「誰かのために動きたくなる気持ち、すごく分かる」
カリッ。起動させたままのノートパソコンから、やけに大きな音が上がった。
「たぶんそれも、突き詰めれば自分のためなんだと思う。だから他人を言い訳にしちゃダメっていう話は分かる。でもやっぱり、自分じゃない誰かのために何かしたいって思うことはあるよ。だからどうしろとか、どうして欲しいとかじゃなくて、あるの」
細川さんが三つ編みを撫でた。そして僕を見て、ぎこちなく笑う。
「わたしね、半田くんのやってることは嫌いだけど、半田くんの気持ちは分かるんだ。好きな人がいて、その人が自分に全く振り向いてくれなくて、別の人にべったりだったら、その別の人にイラつく気持ちは分かる。ほら、文化祭の準備期間中、彼女さんと電話してるの聞いちゃったことあったでしょ。あの時、わたしも同じ気持ちだったから」
彼女さんと電話。思い返して、文化祭の準備を抜け出し、屋上前の踊り場で兄ちゃんと電話をしていた時のことだと気づく。あんな出来事、今の今まですっかり忘れていた。それが誰かに長く影響を及ぼすほどのことだなんて、ちっとも思っていなかったから。
「分かるから許せるわけじゃない。許さなくてもいいとも思う。でも、そうやって分かろうとするのは、すごく大事なことな気がする」
細川さんが床に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。そして座ったままの僕を見下ろし、どこか寂しげに笑う。
「変なこと言ってごめん。もう帰るね」
「玄関まで送ってくよ」
「いいよ。病人なんだから寝てて。じゃあ、お大事に」
細川さんが手を振った。それから僕に背を向け、素早く部屋から出て行く。僕は床のプリントを拾い上げ、読まずに机の上に置き、ベッドに仰向けに寝転がった。
――気持ちを、分かろうとする。
細川さんの言うことは理解出来る。父さんも、母さんも、兄ちゃんも、僕を苦しめたくて苦しめているわけではない。僕のことを大切に想う結果として、僕の望みに反することをしている。その気持ちを分かろうとするのは、確かに大事なことなのだろう。
でも――
「……僕の気持ちは、誰も分かろうとしてないじゃないか」
独り言が漏れた。のっそりとベッドから起き上がり、机の上のプリントを読む。先月の学校行事をまとめた、心底どうでもいい月報だった。
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