中学2年生、秋(5)

 自転車を駐輪場に停め、アパートの階段を駆け上がる。

 兄ちゃんの部屋の扉に耳をつける。すぐに中から音が聞こえ、僕はノブを回して引いた。もちろん鍵がかかっていて開かないので、ドアを叩きながら叫ぶ。

「兄ちゃん!」

 反応なし。聞こえていない――わけはない。望むところだ。こんなことで諦めるようならば、こんなところまで来ていない。

「兄ちゃん! 開けてよ! いるんでしょ! 開けて!」

 冷え固まった手が扉にぶつかり、骨がじんと痺れた。氷になった拳が砕けるイメージが脳裏に走る。構わない。こんな扉一つ開けられない拳なんて砕けてしまえ。

「兄ちゃ――」

「帰れ」

 ドアの向こうから、外気より冷たい声が響いた。

「お前の親御さんと話をした。俺はお前の人生をめちゃくちゃにした責任を取る。そのために今日は、帰ってくれ」

「僕が望んだんだ。兄ちゃんの責任じゃない」

「お前が望んでも、俺の責任なんだ」

「それは法律の話でしょ」

「違う。俺自身の、認識の話だ」

 僕はグッと怯んだ。そう言われると反論が続かない。僕は僕の責任だと認識する。兄ちゃんは兄ちゃんの責任だと認識する。平行線だ。

「今日は帰って、じゃあいつ会ってくれるの」

 無言。そして、答えになってない答え

「親御さんを呼ぶぞ」

「呼びなよ。あんなやつらが来ても僕は動かない。無理やり連れ戻されても、すぐまたここに来る」

「自分の親をあんなやつらなんて呼んじゃダメだ。お前のためにならない」

「僕のことを考えてるふりをするな!」

 金切り声が、自分の耳にキンと響いた。

「兄ちゃんは自分のことしか考えてない! 自分が一番落ち着く、自分が一番気持ちいい形を、僕に押し付けてるだけだ! 僕の気持ちなんて、何も考えてないだろ!」

 同じだ。父さんと兄ちゃんは同じ。幸せな人生とはこういうものだと決めつけて、僕にその人生を歩めと強制して、自分勝手に悦に入っている。僕の自我を、僕が一人の人間であることを、認めていない。

「帰らないよ」

 大きく息を吸う。肺を目いっぱいに膨らませ、一気に吐き出す。

「兄ちゃんが中に入れてくれるまで、絶対に帰らないから!」

 僕はドア横の壁に背中をつけ、膝を抱えてコンクリートの床に座り込んだ。寒空の下、自転車で走って冷えきった体温を、今になって身体が自覚し始める。学ランのボタンを全て留め、両手を顔の前にもってきて息を吐き、小刻みな震えを止めようと試みる。

 左耳に、扉の開く音が届いた。

 ゆっくりと振り向く。扉の隙間から僕を見下ろす兄ちゃんの顔を見て、僕はギョッとまぶたを上げた。

「目、どうしたの」

 兄ちゃんの左目が大きく腫れている。その周りには青あざが広がっていて、一目で殴られたのだと分かった。誰に殴られたのかも、同時に。

「どうでもいいだろ」

「よくないよ。早く病院に――」

「俺のことを心配するなら、帰れ」

 ドア越しに聞こえた冷たい声が、今度はダイレクトに届いた。

「さっき親御さんに連絡するって言っただろ。その前に親御さんの方から連絡が来てるんだ。お前が来ても追い返せってな。お前を中に入れたりしたら、今度はこんなものじゃ済まない。だから、帰れ」

 僕のことを想うなら中に入れろ。僕が兄ちゃんに言ったことを、そっくりそのまま返された。兄ちゃんのことを想うなら僕は帰らなくてはならない。僕がここにいたら、兄ちゃんを困らせてしまう。

「――イヤだ」

 声が震える。視界がぼやける。涙が、こぼれる。

「イヤだ。帰らない。帰るもんか。兄ちゃんは、僕から離れようとしてるんだろ。自分の存在を僕から消して、そしてそれが僕のためだと思ってるんだろ。でもそんなことされても、僕はぜんぜん嬉しくない。嬉しくないんだ」

 僕は目をつむった。泣くな。こういうところで泣くから、子ども扱いされるんだ。

「僕のこと、好きだって言っただろ! 責任取れよ!」 

 制服の袖で涙を拭い、僕はキッと兄ちゃんをにらんだ。兄ちゃんは僕をにらみ返さない。カメラのレンズみたいに無機質な右目と、うっ血した皮膚に埋もれた左目で、僕をじっと見下ろす。

 はあ。

 兄ちゃんの口から、ため息が漏れた。そして僕に背中を向け、扉を大きく開く。兄ちゃんが首だけで振り返り、ぽかんと呆ける僕に向かって言葉を吐いた。

「入れ」


     ◆


 部屋に入った僕に、兄ちゃんはココアを入れてくれた。

 兄ちゃんが自分に入れたのはブラックのコーヒー。やっぱり子ども扱いされているのだろうけれど、甘くて温かい飲み物は凍える身体に優しく染みて、悪い気分ではなかった。僕が口に含んだココアを飲み込んだのを見計らって、テーブルを挟んで向かいあう兄ちゃんが喋り出す。

「落ち着いたか?」

「今は」

「今は?」

「兄ちゃんがまだ変なこと言い始めたら、暴れる」

 兄ちゃんがやれやれと肩をすくめた。そしてコーヒーを飲み、喉を温めてから口を開く。

「俺が引っ越すつもりだって話は、『変なこと』に入るか?」

 舌に残っていたココアの甘みが、一瞬で消え去った。

「職場は変わらないから、とんでもなく遠くに行くわけじゃないけどな。ただ今みたいにお前が自転車で来られるような場所じゃない」

「……それは、僕から離れるため?」

「そうだな」

「父さんにそうしろって言われたの?」

「それもあるし、俺の判断でもある」

「そんなの……!」

「住所は教える」

 言葉が遮られた。ぱちくりとまばたきをする僕の前で、兄ちゃんがまたコーヒーを一口飲んでから語る。

「元々、教える気はなかった。お前の親御さんと話をして、金輪際お前に会うなって言われて、俺はそうしようと思った。望むことを全て受け入れる。それがお前の親御さんに対する、責任の取り方だと思ったから。だけど――」

 兄ちゃんが自分のコーヒーカップに視線を落とし、口元をわずかに緩めた。

「お前のこと、好きって言っちまったからな」

 言っちまった。後悔を感じる言い回し。だけど兄ちゃんの声は穏やかで、落ち着いていた。

「俺は、お前の親御さんに対して責任を取るように、お前に対しても責任を取らなくちゃならない。その折衷案がこれだ。距離は置く。でも繋がりは切らない。連絡も、俺から連絡することはないけど、お前から連絡が来るのは止めない。どうだ?」

 僕は口ごもった。本当は父さんの希望なんか何一つ呑んで欲しくない。だけどこの折衷案は父さんの希望ではなく、兄ちゃんの希望だ。それにこの案を受け入れないと、きっと兄ちゃんは父さんの希望を全て呑む方に動く。最初はそうしようとしていたのだから。

「……分かった」

「よし。じゃあ、決まりだな」

 兄ちゃんが手を伸ばし、僕の頭を撫でた。また子ども扱い。でもやっぱり心地よくて、振り払う気になれない。

「ところでお前、ブログやる気ないか?」

 ブログ。突然の提案に、僕は目を丸くした。

「エイズだって分かった後、支援団体に所属してる人と会って、その人に闘病ブログを勧められたんだ。病気と人知れず戦い続けるのはしんどいだろ。だけどそれを表に出すことで、雑な言い方をすると闘病が『ネタ』になる。ブログのネタにするために闘病生活をしてるって考えると、少し気が楽になるんだってさ」

「じゃあ兄ちゃんが書けばいいじゃん」

「そんな暇も文才もないよ。でもお前は両方あるだろ。作文が自治体の文集に乗ったとか、読書感想文で賞を取ったとか、色々自慢してたじゃないか」

「そう言われても、どうやればいいか分からないし」

「その辺は今から教えてやる。ちょっと待ってろ」

 兄ちゃんが立ち上がり、机の上のノートパソコンを取りに向かった。やたらと積極的だ。自分が距離を置いて生まれる穴をブログ運営で埋めさせたいんだなと、意図が読めて来る。

 僕の隣に座り、兄ちゃんがノートパソコンを開いた。そして僕をパソコンの前に座らせて指示を出す。フリーメールのアドレスを取得した後、それを使ってフリーブログのアカウントを取得し、続けてアカウントのプロフィール画面を開く。

「まずはここを埋めないとな」

「どこまで書いていい?」

「特定されない範囲で好きに書けよ。ただ、自分の年齢は誤魔化した方がいいと思うぞ。十四歳で闘病ブログはちょっと大変だからな」

「うん。そうする」

 プロフィールを打ち込もうとキーボードに手を乗せる。最初に入力するのはニックネームだ。何かいい名前はないだろうか。思いつかず、どこかにヒントが転がっていないかと部屋を見渡す。

 CDの詰め込まれたラックが、僕の視界に入った。

 電流が走るように、頭にパッとワードが浮かんだ。すぐさまスマホで綴りを調べ、プロフィールのニックネーム欄に打ち込む。横から画面を覗いていた兄ちゃんが、感心したように呟きをこぼした。

「いい名前だな」

 決して、一般的な単語ではない。説明なしで分かるような言葉でもない。だけど兄ちゃんには通じた。それが嬉しくて、兄ちゃんと深いところで繋がれた気がして、僕は得意げに笑いながら言葉を返した。

「でしょ?」

 ニックネーム――


『Mr.Fahrenheit』

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