中学2年生、秋(4)
週が明けた。
色褪せた空を見上げ、通学路を歩きながら、こんな状況なのに呑気に登校している自分に違和感を覚えた。このまま兄ちゃんの家に行ってしまおうか。いや、それは迷惑をかけるだけだ。兄ちゃんとは今週末、一緒に僕の両親と話をする約束をしている。大胆な行動に出るのは、その結果が出てからでも遅くない。
学校に着き、自分の机で本を読む。周囲の雑音をいつもより鬱陶しく感じるのは、僕の精神状態と無関係ではないだろう。余裕がない。五感が受け取る刺激全てに、ほんのりと不快感が乗っている。
「何読んでるの?」
顔を上げる。声で細川さんだと分かっていたのに、つい威嚇するように目を細めてしまった。誰彼かまわずだ。本当に余裕が無い。
「海外文学」
「誰?」
「言っても分からないと思うよ」
冷たくあしらうと、細川さんは「そっか」と寂しそうに三つ編みを撫でた。そして軽く丸めていた背をピンと伸ばす。
その背筋を、半田が人さし指で撫でた。
「はよー!」
細川さんがビクッと身体を上下させ、勢いよく振り返った。半田はへらへらと笑いながら細川さんに話しかける。
「今日さみーなー」
「……そうだね」
「こういう日ってどんなパンツ履くの? 毛糸?」
これみよがしに大きな声が、教室中に響いた。面白い俺アピールと女子にこんなこと言えちゃう俺アピール。つまらないし、セクハラだよ。イラつく。
文化祭の後、細川さんは担任の先生に半田の迷惑行為について相談した。そして半田は先生から注意を受け、結果、迷惑行為はパワーアップした。しょっぱなから「処女ですか?」と質問したぐらい舐め腐っている相手に叱られても、半田には何も響かなかったらしい。むしろ「先生に注意されたのに続ける俺スゴイ」というブーストがかかってしまったようだ。
「っていうか毛糸のパンツって、股痒くなったりしないの? どうなの?」
「さあ……履いたことないから」
肩をすくめてオドオドしながら、それでも細川さんは質問に答えてしまう。最悪の対応だ。突き放すか、相手にしないか、どちらかにすればいいのに。
「っていうか今日なに履いてんの? 見せて見せて」
半田が細川さんのスカートを掴んだ。細川さんが「あっ!」と悲鳴を上げてスカートを抑える。本当に、いい加減にしろよ。僕は椅子から立ち上がり、スカートに触れている半田の手を掴んだ。
「止めろよ」
半田が僕を見て、にやりと人を小馬鹿にするような笑みを浮かべた。そしてその表情に相応しい、人を小馬鹿にするような言い方で言葉を放つ。
「何? お前、細川のこと好きなの?」
「それはお前だろ」
迷いのない早さに、半田が怯んだ。
「好きな子いじめちゃうとか、下ネタで困らせるの楽しいとか、小学校で卒業しとけよ。そんなことされてお前のことを好きになるわけないだろ。バカ」
最後の一言に力を込める。半田の顔のパーツがみるみる吊り上がっていった。だけど半田に感情を反論に変える言語能力はなく、かと言ってこの場で僕を殴る度胸もなく、捨て台詞を吐いて僕の前から去る。
「ウゼえ」
お互い様だよ。心の中で悪態をつき、僕は再び席についた。成り行きを見守っていた細川さんが僕に声をかける。
「ありがとう」
「気にしないでいいよ」
そう、本当に気にしなくていい。僕は君を守ったわけではない。イライラしていただけだ。その証拠に、君は僕と話したそうにしているけれど、僕は君と話すつもりはない。
細川さんから視線を逸らし、読みかけの本を開く。細川さんが僕の傍を去る。半田のおかげでイライラを解消できたのか、雑音が少なくなっている気がした。
◆
僕が死んでも、世界は回る。学校にいるといつもそう思う。世界はとんでもなく大きなロボットで、僕はその歯車の一つに過ぎない。僕が何もしなくても、僕を取り巻く世界は、いつだってぐるぐると勝手に動く。
今日僕が死んだら、明日クラスメイトたちは騒ぐだろう。一ヵ月も経てば、すっかり過去になっているだろう。半年も経てば、きっともう忘れている。僕の死んだことではなく、僕の死によって受けた衝撃のことを。
帰りのホームルームが終わった。一人で家へと歩きながら、朝と同じように兄ちゃんの家に向かうことを夢想する。学校にも、家にも行きたくない。兄ちゃんと一緒にいたい。いつから僕はこうなったのだろう。思い出せない。考えれば考えるほど、生まれた時から兄ちゃんのことを好きだったような気がしてくる。
家が見えてきた。僕の足が鈍る。アスファルトにローファーを擦りつける時間が長くなり、そして玄関までほんのわずかいうところで、僕はピタリと足を止めた。
車。
屋根に覆われた駐車スペースに、父さんが出社する時に乗っていく車が停まっている。今日も乗っていったはずだ。つまり、父さんが帰って来ているということ。
瞬く間に、僕の頭の中で最悪のシナリオが組みあがった。考えたくない。考えたくないけれど、あり得る。あの人はそういうことをする。
「……ただいま」
玄関の扉を開け、家に入る。リビングから威圧感のある低い声が届いた。
「こっちに来なさい」
まだ分からない。リビングに入ったら、想像とは全く違う光景が広がっているかもしれない。そう一縷の望みを託し、僕はリビングの扉をゆっくりと開いた。そしてソファに父さんと母さんが横並びで座っているのを見て、苦々しく唇を噛む。
「そこに座れ」
父さんがソファの前に敷いてある絨毯を指さした。自分たちはソファで僕は床。同じ目線で話をする気は、さらさらないようだ。
僕は絨毯の上に正座をした。何を言われるかは分かっている。父さんが腕を組み、偉そうにふんぞり返りながら声を放った。
「あいつから聞いたぞ」
名前を口にするのも汚らわしいという言い方。本当に、下らない。鼻で笑いそうになる。
「……何を聞いたの」
「全てだ」
「だから、何」
「全てだと言っている」
――ああ、言いたくないのか。兄ちゃんの名前を言わなかったのと同じだ。じゃあ僕が言ってやるよ。
「兄ちゃんと生セックスをして、HIVに感染したこと?」
とびきりに下品な言葉を選ぶ。母さんが「そんな言い方……!」と口にして、父さんに「いい」と制された。主導権を奪わない程度に同意を示し、恭順さを示す茶番。母さんは父さんに逆らわない。僕と父さんが対立した時、母さんが僕の味方をしたことは一度もない。
まあ、こんなものは我慢できる。期待していないのだから、失望することもない。我慢できないのは――
――兄ちゃん。
僕は俯き、制服のズボンの上から腿に爪を立てた。二人で話をしようって言っただろ。無理かもしれないけれど、可能な限り分かって貰えるよう頑張ろうって決めただろ。僕はその約束があるから、今朝、兄ちゃんの家に行くのを我慢したのに。
「明日、お前を検査に連れて行く」
「……学校は?」
「休ませる。それどころじゃないのが分からないのか?」
「それどころかもよ。今はもうHIVなんて、大した病気じゃないから」
「それは知っている」
意外な言葉が飛び出し、僕は顔を上げた。エイズで亡くなったフレディをあんな馬鹿にした父さんだ。当然HIVの知識は皆無で、偏見にまみれていると思っていた。
「話を聞いて、調べた。早期に見つけて治療を続ければ死ぬような病ではないようだな。もちろん感染しないのが一番だが、感染してしまったものは仕方がない。前向きに対処すべきだ」
語る父さんを、僕は呆然と見上げる。父さんが偏見を持たず、まともなことを言っている。信じられない。いったい何があったというのだろう。どういう心変わりがあって、こんな――
「それに今はHIVに感染しても、HIV非感染の子どもを作ることも可能らしい」
子ども。
精子と卵子が結合して出来るもの。男と女の間に生まれる新しい命。HIVに感染していても、HIV非感染なそれを作ることが出来る。男の人が、兄ちゃんが好きな僕には、まるで必要のない情報。
「だから今からでも真っ当な生き方は出来る。諦めるな。お前がこれからちゃんと生き直すなら、父さんも母さんもお前を支えてやる」
父さんが笑った。この人は何を言っているのだろう。自分の父親なのに、まるで分からない。宇宙人の言葉を聞かされている気分だ。
「お前を変えたやつのことなんか、忘れろ」
変えた。僕は兄ちゃんに変えられた。兄ちゃんさえいなければ、真っ当で、ちゃんとした生き方が出来たのに、兄ちゃんが僕の人生を台無しにした。
僕は、叫んだ。
「変えられてない!」
ふざけんな。認めないぞ。そんなイカれた世界観、認めてたまるか。
「僕は変えられてない! 僕は元から男が好きで、兄ちゃんのことが好きで、僕の方から告白したんだ! 兄ちゃんは告白を断ろうとしたのに、僕が強引に押し切ったんだ! 何も知らないくせに勝手なこと言うな!」
「それを変えられたと言っている!」
「はあ? ワケ分かんねえよ!」
「親に向かってなんだその口の利き方は!」
「親だろうが何だろうが、ワケ分かんねえやつはワケ分かんねえんだよ!」
「いい加減にしろ!」
父さんが僕の頬を思い切り張った。僕は背中から倒れ込み、床に後頭部をぶつける。チカチカと点滅する視界の中、母さんが両手で顔を覆った。
「どうして、こうなるの」
泣いている。ただひたすら、自分のためだけに。
「お願いだから、父さんの言うことを聞いて……」
理屈の欠片もない、腹を見せて服従しろと求める言葉。僕は上体を起こし、聞くわけねえだろと罵声を浴びせようとする。
だけど、父さんの方が早かった。
「あいつがそう言ってたんだ!」
野太い叫びが、僕の動きを止めた。
「お前を変えた、変えてしまったと、あいつ自身が言っていたんだ! 自分がお前を歪めてしまった! 全て自分のせいだ! 後悔してもしきれないと!」
兄ちゃんが父さんに言った。僕を変えた。僕は兄ちゃんに変えられたと。
「だから――」
僕は、跳ねるように床から起き上がった。
父さんと母さんに背を向け、リビングを飛び出す。父さんの「待て!」という声を振り切り、学校指定のローファーを履いて外に飛び出す。自転車にかけているダイヤルロックの鍵を外し、ただ一つの想いをひたすらリフレインしながら、サドルに跨ってがむしゃらにペダルを漕ぐ。
――許さない。
許さない。いくら兄ちゃんでも絶対に許さない。僕の想いを嘘にすることは、虚構に落とし込むことだけは、何があっても許すわけにはいかない。
海沿いの道に出る。横殴りの風を受けて倒れそうになる車体を、スピードで強引に抑える。冬の気配を多分に含んだ海風は冷たく、だけどなぜだか、寒さは微塵も感じなかった。
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