中学2年生、秋(3)

 病院を出た後、僕たちは喫茶店に入った。

 端っこの二人席に座り、兄ちゃんはホットコーヒーを、僕はミルクレープと紅茶のケーキセットを頼んだ。僕も飲み物だけで良かったけれど、兄ちゃんが遠慮するなとしつこいので折れた。兄ちゃんは僕からの迷惑を欲しているのだ。人生を賭けて謝らなくてはならない迷惑を、僕にかけてしまったと思っているから。

「ケーキ、美味いか?」

 ぎこちなく笑いながら、兄ちゃんがケーキを食べる僕に声をかけた。僕はこくりと頷き、ケーキを食べ続ける。こんなやりとりをしたいわけじゃないのに。いっそ、僕から言ってしまおうか。甘いクリームを舌で転がしながら、苦い言葉を喉奥にしたためる。

 だけど、使わなかった。

「これからの話だけどな」

 ケーキを半分ほど食べ進めたところで、兄ちゃんが本題を切り出した。僕はフォークを皿の上に置き、話を聞く体勢を整える。

「まず、ちゃんとしたところでもう一回検査を受けなくちゃならない。さっきの病院で言われた話は覚えてるな」

 僕は「うん」と答えた。さっきの病院では治療はもちろん、診断書を出すことすら出来ないそうだ。だからまず別の病院で改めて検査を行う必要がある。それが僕たちに検査結果を告げたお医者さんの話だった。

「そして」兄ちゃんがコーヒーに口をつけた。「そのために、俺たちはお前のご両親と話をしなくちゃならない」

 ――やっぱり、そうなるか。

 仕方ないけれど、想像して気が滅入る。病気のことを話すというのはつまり、兄ちゃんのことを話すということだ。世界中で愛されている伝説のロッカーすら「変態の病気にかかって天罰で死んだ」と切り捨てる、あの父さんに。

「……僕の家の話だから、僕が話をするよ」

「ダメだ。そうしたらお前は、俺のことを隠すだろ」

「だってそうしないと僕たち引き離されるよ。兄ちゃんなんて捕まるかもしれない」

「そうなったらそうなったで、仕方ないさ」

 あっさりした言い方に、苛立ちを覚える。仕方なくない。確かに世の中の仕組みはそうなっているのかもしれない。でも僕にとっては、仕方のないことではない。

「俺は許されないことをしたんだ。その罪を問われたら、償わなくちゃならない」

 止めろ。僕を抱いたことが間違いだったみたいに言うな。それは兄ちゃんが納得するための言葉だ。僕のための言葉じゃない。

「――でも僕は、こうなってちょっと嬉しいよ」

 我慢できず、僕は口を開いた。慰めだと誤解されないよう、声に芯を通す。

「兄ちゃんと同じになれて嬉しい。本当の意味で兄ちゃんと繋がれた気がする」

 兄ちゃんのまぶたが大きく上がった。僕の言葉に心の底から驚いている表情。だけど、紛れもない本心だ。

「それに、フレディも一緒だし」

 言葉を付け足す。兄ちゃんがふっと視線を横に流した。テーブルにひじをつき、組んだ手の後ろに表情を隠して呟く。

「フレディは、天国にいるんだろうな」

 天国。死を意識させる物騒な言葉。肩にのしかかる空気が、ずっしりと重たくなった。

「……どういうこと?」

「フレディもたぶん、他の誰かにHIVを感染させてるだろ。最後のパートナーのジム・ハットンが感染者だったのは有名な話だ。でも音楽でそれ以上の人を救っている。だからきっと、天国に行けるんだろうなと思って」

 兄ちゃんがコーヒーを飲み、カップをソーサーに置いた。その先は言わないで欲しい。コーヒーと一緒に飲み込んで欲しい。僕の願いを、兄ちゃんが裏切る。

「俺は、地獄に行くよ」

 コーヒーの苦い匂いが、少し濃くなった気がした。

「お前を感染させた罪を背負って、地獄に行く。だからお前は天国に行けるようにちゃんと生きて、天国でフレディに会えたら、俺の代わりにライブを聴いてくれ。まあ、今時HIV感染ぐらいじゃ死ぬようなことにはならないし、お前が寿命を全うして死ぬ頃には、フレディはもう生まれ変わってるかもしれないけどな」

 兄ちゃんが死んだら、僕も死ぬよ。

 そう、即答してしまいたい。自分がいなくなった後のことを考えて、自棄になるなと予防線を張っている兄ちゃんに、はっきりとNOをつきつけてやりたい。でもそれをしたら兄ちゃんがどうするか分からないほど、僕だって愚かな人間ではない。

 兄ちゃんの免疫力がどこまで落ちているか、僕は知らない。だけど兄ちゃんが「自分はいつ死んでもおかしくない」と思っていることは間違いない。そう思っているからこそ、今から亡くなった後の話をしているのだ。

 そんな中、自分の死と僕の死が直結していると聞かされたらどうなるか。決まっている。兄ちゃんはその結合を断ち切ろうとする。「お前は俺なんかいなくても生きていける」と僕を説得しようとしてくる。

 そんなの――耐えられない。

「……分かった」

 僕は首を縦に振った。兄ちゃんが微笑み、優しい声色で告げる。

「頼んだぞ」

 今度は頷かない。紅茶のカップを手に取り、中身を喉に送る。まだ届いたばかりの紅茶なのにやけに温いのは、僕の舌が麻痺しているからだろう。心も麻痺してしまえばいいのに。紅茶の水面に映る自分の顔を眺めながら、僕は、そんなことを考えた。

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