中学2年生、秋(2)
兄ちゃんが退院した。
次の日曜、僕は昼食の後すぐに家を出た。自転車には乗らず、歩いて海浜公園へ向かう。公園にはイチョウの黄色い葉がこんもりと積もっていて、枝に残っている葉の方が少なく見えるぐらいだった。いよいよ冬が近いんだなと、羽織っているパーカーの裾をいじりながら思う。
駐車場に着いた。エンジンのかかっている青い車に駆け寄り、助手席のドアを開けて乗り込む。運転席のシートを倒して寝転んでいた兄ちゃんが、シートベルトを締める僕に声をかけてきた。
「元気だったか?」
「……ギャグなら面白くないよ」
「ごめん」
兄ちゃんが笑い、シートごと身体を起こした。とりあえず見た目はあまり変わっていない。前より痩せた気はするけれど、気のせいかもしれない程度だ。
「痩せた?」
「少しな」
「なんで入院してたの?」
兄ちゃんが僕から顔を逸らした。夢の中にいるみたいに、目を細めてフロントガラスをぼんやりと眺める。やがて唇が開き、狭い車内に短い言葉が放たれた。
「エイズ」
乾いた声が、肌をざらりと擦った。
エイズ。フレディを殺した病気。名前を聞いたことはある。重い病気だというのも知っている。だけど、詳しくは知らない。空想上のモンスターのように、いたずらに不安ばかりが掻き立てられる存在。
兄ちゃんが僕の方を向いた。真剣な眼差しと声色を作って、僕に尋ねる。
「知ってるか?」
「……名前だけなら」
「HIVは」
「それも、名前だけ」
「そうか。じゃあ説明するぞ。まずエイズは病気というより、状態の名前だ。人の免疫力を下げるヒト免疫不全ウイルス、通称HIVに感染して、免疫力が大きく下がった状態で、特定の疾患を発症するとエイズになる。つまりエイズと診断された俺は、HIVに感染しているということになる」
兄ちゃんが自分の胸に手を乗せた。ここにウィルスがいるんだと示すように。
「HIVに感染しても免疫力はすぐには下がらない。早期に発見できれば、今の医学なら十分に寿命を全うすることが可能だ。俺みたいにエイズを発症してから感染に気づく『いきなりエイズ』って呼ばれるパターンが最悪。だから感染リスクのある行為をした後は、感染しているかどうか検査することが重要になる」
病気の話が、いつの間にか検査の話にすり替わっている。理由は分かる。名前だけ知っているなんて嘘だ。僕はHIVについてもう一つ、この話をするならば絶対に外せない、大事なことを知っている。
「そしてHIVは、性行為によって人から人へと感染するケースが一番多い」
僕はごくりと唾を呑んだ。兄ちゃんが神妙な雰囲気で説明を続ける。
「正確にはHIVの感染源となるもの、血液とか精液とかが、粘液や傷口に触れると感染の可能性が出てくる。だからコンドームをして接触を防げば問題ない。ただ――」
兄ちゃんが目を伏せた。唇を噛み、言葉を絞り出す。
「最初、しなかっただろ」
ゴムがない。
兄ちゃんにそう言われた時、僕は「要らない」と切り捨てた。ここに来てはぐらかすつもりなら今度こそ死ぬと脅した。だから、僕のせいだ。気にしなくていい。そんな辛そうな顔、しなくていいのに。
「今からお前を、HIV検査をやってくれる病院に連れて行く。その日中に結果が出る即日検査だ。これからの話は、その結果が出てからにしよう」
「分かった。でも一つだけ、聞かせて」
「なんだ」
「兄ちゃんは大丈夫なの?」
「俺のことはどうでもいい」
強い口調。これを聞かれたらこう答えよう。そう準備していた言葉なのが伝わる。ならばこの先も準備しているはずだ。何を訴えても兄ちゃんは意志を曲げない。今度は命を使った脅迫も通用しないだろう。それに屈してしまったことを、心の底から後悔しているはずだから。
「今は自分のことだけを考えろ。分かったな?」
考えてるよ。考えてるから、兄ちゃんのことが気になるんだ。僕が元気でも兄ちゃんがダメなら僕は平気じゃないから、だから聞いてる。どうでもいいわけないだろ。どうして分かってくれないんだよ。
「……うん」
小さく頷く。兄ちゃんが僕の頭を軽く撫で、その手をハンドルに乗せて呟いた。
「行くぞ」
車が動き出す。揺れを感じながら、助手席の窓から空を見上げる。仄暗い色をしたうろこ雲が、空一面をびっしりと埋め尽くしていた。
◆
大きな街の屋外駐車場に車を停め、僕たちは外に出た。
しばらく歩いた後、何の看板も出ていない古びたマンションビルに入った。そしてエレベーターで四階に向かう。エレベーターを降りるとすぐに「性病専門」と記された病院の扉が現れて、秘密結社のアジトを見つけたような気分になった。
兄ちゃんが扉を開けて、僕が続く。中は病院とは思えないぐらいに薄暗く、小さな受付カウンターに立っている職員のお姉さんもどこか陰鬱な気配を帯びていた。かなり失礼だけど、ここにいた方が病気になってしまいそうだ。
「お二人様でしょうか」
「いえ、自分は付き添いです。検査したいのはこの子」
兄ちゃんが僕を指さした。受付のお姉さんがちらりと僕を見て、淡々と告げる。
「分かりました。ではまず、あちらの部屋で問診票をご記入ください」
お姉さんが兄ちゃんに問診票を渡した。兄ちゃんは「分かりました」と言って、僕と一緒にカーテンで仕切られた小部屋に入る。小部屋の中の長椅子に並んで座るなり、兄ちゃんが僕に問診票を渡した。
「書いてくれ。名前とか住所とかは、ぜんぶでたらめでいいから」
「いいの?」
「いいんだよ。そういうのは保険を使うために必要なんだ。これからやる検査は保険適用外だから関係ない」
「じゃあ、高いんじゃないの?」
「そんなこと気にしてる場合じゃないだろ」
ぴしゃりと言われ、僕は黙った。今日の兄ちゃんは僕が兄ちゃんのことを気にすると怒る。その事実を再確認し、問診票を記入する。
しばらく経って、お姉さんが問診票を取りに来た。それから採血を行い、採血の後は問診票を書いた場所とは違うカーテンで仕切られた小部屋に入って、検査結果が出るまで兄ちゃんと待機。落ち着かない。そわそわする。
「なんでこんな風に隔離されるのかな」
「性病検査だからだろ。知り合いと鉢合わせしたらどうする」
「あ、そっか」
「きっとこういうことで困ってる人はそこらじゅうにいるんだ。ただ隠してたり、隠されたりしてるだけ。お前みたいな子どもが来ても動じないのも、きっとそういうことなんだろうな」
「慣れてるってこと?」
「そう。俺みたいにだらしないやつが子どもに手を出して、病気を感染させたかもしれないと検査に連れてくる。そんなことがきっとたくさんあるんだよ」
兄ちゃんが唇を歪めた。僕は反論をグッと堪える。兄ちゃんは悪くない。迫ったのは僕だ。それに僕はあの出来事について、何も後悔はしていない。
はっきり言って僕は、僕自身のことなんてどうでもいい。
大事なのは兄ちゃんだ。兄ちゃんは僕の全て。僕と兄ちゃんは一蓮托生。なら守るべきはまだ何も起きていない僕ではない。エイズを発症した兄ちゃんなのだ。
だからあの夏のことは、僕にとって後悔の対象ではない。だって僕を抱いても抱かなくても、兄ちゃんの病気は何も変わらないのだから。そうである以上、僕からしたら、兄ちゃんが初めて僕を認めてくれた大切な思い出でしかない。
でも兄ちゃんが後悔すると、それが変わる。
僕にとって大事なのは兄ちゃんだから、兄ちゃんが後悔しているなら、それは兄ちゃんを苦しめる悪い思い出になってしまう。
だから――僕のことなんて考えなくていい。
考えなくていいのに。
「兄ちゃん」
呼びかける。だけど同時に職員のお姉さんがカーテンを開き、言いかけた台詞はうやむやになった。お姉さんの案内で小部屋から出て別の部屋に行き、兄ちゃんは立ったまま、僕だけが丸い椅子に座って白衣を着たお医者さんと向き合う。父さんぐらいの歳の男の先生。
「では、検査の結果を説明します」
傍にあった小さな台の上に、先生が細長い紙切れを置いた。紙切れは色の濃いエリアと薄いエリアに分かれていて、紙切れの中央付近に二つ並んでいる薄いエリアには、それぞれ赤い色の横線が入っている。先生が自分に近い側の、色の薄いエリアを指さした。
「採取した血液をこの紙に浸透させて検査を行いました。まずこの部分が、検査がきちんと出来たかどうかを示しています。出来ていればこのように線が入ります。そして」
先生の指先が、僕に近い側の、色の薄いエリアに動いた。
「この部分が、HIVに感染しているかどうかを示しています。もし検査によりHIVに感染していると判定された場合は」
ほんの一瞬だけ、先生の視線が紙切れから僕に移った。
「線が入ります」
感染していたら、線が入る。
紙切れには間違いなく、二つのエリアに赤い線が一本ずつ入っている。検査は成功。検出も成功。二本の線が告げるメッセージが、僕の脳髄に突き刺さる。
「つまり、検査結果は陽性ということになります。つきましては――」
紙切れから顔を上げ、先生が言葉を止めた。大きく開かれた目の焦点は、僕より奥に合っている。僕は首を曲げ、後ろに立つ兄ちゃんを見やった。
虚ろな目をした兄ちゃんが、大粒の涙をこぼしながら呟いた。
「なんで……」
僕のためではない、僕のせいで流れた涙。僕は兄ちゃんを、泣かせてしまった。
「なんで、俺は……」
兄ちゃんが両手で顔を覆った。僕は腿の上で手を強く握る。お医者さんが兄ちゃんと僕を交互に見やり、淡々と説明の続きを始めた。
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