中学2年生、夏(3)
高く昇った太陽が、ちりちりと首の裏を焦がす。
駐輪場に停めた自転車に鍵をかける。ひび割れた壁に蝉の抜け殻がくっついているのを見つけ、意味もなく手に取って意味もなく捨てる。灰色のコンクリートにぽてりと落ちた抜け殻は、生き物の外殻ではなく、タバコの吸い殻と同じ類のゴミのように見えた。言ってしまえば最初からゴミなのに、地面に落ちたことで初めてゴミになったような、そんな気がした。
僕はアパートに入り、いつものように階段で三階まで上がった。兄ちゃんの部屋の前に立ち、両手で自分の両頬をぴしゃりと叩く。気合を入れ、インターホンを押してから数秒後、部屋の中から兄ちゃんが現れて呆れたように笑った。
「またか」
兄ちゃんがドアを大きく開いた。「またか」なんて言うぐらいなら、最初から相手をしなければ良いのに。本当にズルい。僕と同じように。
玄関に上がり、リビングに向かう。リビングはクーラーが効いていて寒いぐらいだった。自分の中で育てていた熱がしぼんでいくのを感じ、静かな焦りを覚える。
「アイス食べるか?」
「食べる」
兄ちゃんがキッチンに向かった。やがてカップのバニラアイスとスプーンを二つずつ持って、リビングに戻ってくる。テーブルにアイスを置き、二人並んで食べ始めるなり、兄ちゃんが僕に尋ねた。
「お前、ちゃんと友達とも遊んでるのか?」
「この間の花火大会は、クラスメイトと行ったよ」
「へえ。そりゃ良かった」
「女の子と二人で行って、告白された」
スプーンを止め、兄ちゃんを見やる。
兄ちゃんの手も止まっていた。動揺している証拠に、少し嬉しくなる。だけど兄ちゃんはすぐアイスをすくって口に運び、調子よく僕を褒めた。
「やるじゃん」
思わず、感情が爆発しそうになった。アイスを一口食べて頭と心を冷やす。まだ早い。そういうのは、本当にどうしようもなくなってから。
「やってないよ。僕はその子のこと、好きじゃないし」
「これから好きになるかもしれないだろ」
「ならない。僕が好きなのは、兄ちゃんだから」
バン。頭の中で銃声を鳴らす。そしていきなり心臓を撃ち抜かれ、呆然としている兄ちゃんに、二発目の弾を撃ち込む。
「兄ちゃんが男の人を好きになるのも、僕は知ってる」
二発目は、効かなかった。変わらない兄ちゃんの表情を見て、僕は「やっぱり」と思う。僕が心の内に秘めていたものを、兄ちゃんは言われるまでもなく理解していた。告白が伝えるものは想いではなく意志。兄ちゃんが驚いているのは僕が明かしたからであって、僕を知ったからではない。
「……そうか」
兄ちゃんがスプーンから手を離した。視線を下げて、寂しそうに呟く。
「それじゃあ、もうここには来ない方がいいな」
分かっていた。
そうなるのは、兄ちゃんからそういう返事が来るのは、聞く前から分かっていた。だから僕はずっと黙っていたのだ。逆に言うと、黙るのを止めたということは、退くつもりはないということ。
「どうして」
「あのな、考えてみろ。中学生の女の子が一人暮らしの親戚のおじさんの家に入り浸ってたら周りはどう思う? お前がやってるのはそういうことだぞ」
「それの何が悪いんだよ」
「間違いがあったらどうするんだ」
「別にいいだろ。僕は兄ちゃんのことが好きなんだから。僕の兄ちゃんへの気持ちが間違いだって言うの?」
「そうだ」
はっきりと答えられ、つい怯んでしまった。兄ちゃんが僕を鋭く見据える。
「お前はまだ子どもだ。物事の本質を見極める目が備わってない。お前が好きなのは俺じゃなくて、お前自身が生み出した俺の幻想だ。それに気付け」
――なんで。
なんで、そんなことを言うんだよ。確かに僕は子どもだ。だけど兄ちゃんが思っているよりはずっと大人だ。それに僕だって、好きで子どもなわけじゃない。本当は今すぐ学校なんか辞めて、家なんか飛び出して、兄ちゃんと一緒に生きたいのを我慢している。苦しみながら、我慢しているのに。
「もう、十四歳だ」
頭を撫でられるような、自分の気持ちを見誤るような歳じゃない。兄ちゃんをにらみながらそう告げる。だけど兄ちゃんは僕をにらみ返し、力強く言い切った。
「まだ、十四歳だ」
お前が何を言っても意見を変える気はない。声が、視線が、雄弁にそう語っていた。想いを無かったことにして葬り去る。その覚悟が、痛いぐらいに伝わる。
――そっか。
なら、分かったよ。
「……あっそ」
床に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
兄ちゃんの視線がふっとゆるんだ。僕は兄ちゃんに背を向けて歩き、ベランダに続くガラス扉を開けて外に出る。真夏の熱気がむわっと僕の全身に襲いかかり、クーラーとバニラアイスで引っ込んでいた汗が一気に噴き出した。
「おい」
兄ちゃんの呼びかけを無視して、僕はベランダの手すりによじ登った。そして手すりの上に立って反転し、背中に直射日光を感じながら、ベランダのすぐ傍まで来ている兄ちゃんを見下ろす。兄ちゃんが口を開き、僕に向かって震える声を放った。
「下りてこい」
「下りて欲しいなら、僕を抱け」
兄ちゃんの瞳が、大きく揺れた。
「先延ばしも誤魔化しも許さない。今すぐ、ここで、僕を抱け。僕と一緒に二度と戻れないところまで突き抜けろ。そうすれば僕は、死ぬのを止めてもいい」
「……馬鹿なことを言うな」
「馬鹿なことを言ってるのは兄ちゃんの方だ」
暑い。熱い。頭が火照る。とろける。
「僕は兄ちゃんが全てなんだ。学校も、家族も、他のものなんて全部どうでもいい。だからその兄ちゃんが僕の気持ちを間違いだって言うなら、何もかも、無かったことにして、片付けようとするなら――」
汗とは違う水滴が、僕の頬をつうと伝った。
「僕はもう、死ぬしかないんだよ」
目をつむり、重心を後ろに傾ける。地面に捨てた蝉の抜け殻。僕もああいうゴミになる。兄ちゃんはゴミになった僕のために泣いてくれるだろうか。どうでもいいか、そんなこと。ゴミになった後のことなんて、考えなくても――
腰の後ろに、強い力がかかった。
そのまま前に押され、重心が引き戻される。僕は目を開き、僕の腰に腕を回していた兄ちゃんの胸に、手すりの上から飛び込んだ。兄ちゃんが僕を抱き止め、背中から部屋の中に倒れる。
板張りの床が軋み、部屋が軽く揺れた。兄ちゃんが僕の身体を抱きしめる。そして僕の耳元に口を寄せ、泣きそうな声で囁いた。
「俺も、好きだ」
――知ってるよ。
僕が細川さんの想いを知っていたように、兄ちゃんが僕の想いを知っていたように、僕は兄ちゃんの想いを知っている。本当に葬りたかったのは僕の想いではなく、自分自身のそれだと言うことも。
でも僕はそんなの許さない。だから「言い訳」をあげるよ。僕の命を救うために仕方なかった。そういう、美しくて汚い言い訳を。
「お前を抱く。一緒に戻れないところまで行く。だから、死なないでくれ」
僕を抱く兄ちゃんの腕に、さらに強い力が込められた。僕は兄ちゃんの胸に顔を埋める。心臓の鼓動。汗の匂い。兄ちゃんがそこにいる証を噛みしめながら、僕は小さく、首を縦に振った。
「うん」
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