中学2年生、夏(4)
細川さんの告白への返事は、初めて話した海浜公園でやることにした。
生の声の告白に、電話やメールやSNSで返事をする気にはなれなかった。本当は家まで行って細川さんを呼び出し、一気にバッサリとやりたかったけれど、細川さんの家が分からないので断念した。一応、電話で呼び出す時に暗めの声を作って、変な期待を持ちにくいようには仕向けた。
海を望むベンチに座り、細川さんを待つ。短パンからにゅっと伸びた膝小僧に海風が当たり、自分がカジュアルな格好をしていることを意識する。もっとフォーマルな服を選んでくれば良かったかもしれない。服装を失礼がないように整えておいて告白を断るのも、だいぶおかしな気はするけれど。
やがて、細川さんが現れた。服装は白いワンピース。花火大会の時と同じように髪をほどいていたけれど、眼鏡はかけていた。風でぱらぱらと散らばる髪を抑えながら、細川さんが僕の隣に座る。
「待った?」
「別に」
「なら良かった」
細川さんが笑った。僕は笑わない。ここは優しくしないのが優しさだ。例え今さら遅すぎるとしても。
「細川さん」
「待って」
細川さんが僕の言葉を制した。そして海に目をやり、髪を弄りながら呟く。
「ダメなんでしょ」
「うん」
間を置かず、はっきりと答える。あんまりな言い草がおかしかったのか、細川さんの口角が上がった。
「好きな人がいるんだ。その人に告白して、付き合うことになった。だから細川さんとは付き合えない」
「わたしの知ってる人?」
「知らない人」
「どんな人か聞いてもいい?」
「聞いてもいいけど、答えられない。変わった事情がたくさんあるんだ。それで、その人に万が一でも迷惑がかかったら嫌だから、何も言えない」
「そっか」
細川さんが海から空に視線を移した。水から、水色へ。
「万が一でも、なんて、本当に好きなんだね」
「大好きだよ。フラれてたら死んでたかもしれない」
「……すごいね。そこまで人を好きになれるのは、素直に羨ましいな」
びゅうっと強い風が吹いた。手を掲げて顔を守る僕の横で、細川さんがベンチから立ち上がる。
「わたしはそこまでじゃないなあ。フラれたけど、死にたいとは思わないもん」
遠い目で水平線を見やる細川さんは、蜃気楼のように儚げに見えた。死にたいとは思っていないけれど、消えたいとは思っている。何かきっかけ一つでふっといなくなってしまいそうな佇まいから、それが伝わる。
潮風に髪をはためかせながら、細川さんがゆっくりと振り返った。そして座っている僕を見下ろす。表情は、逆光でよく見えない。
「幸せになってね」
踵を返し、細川さんが走り出した。細い背中が小さくなり、やがて全く見えなくなる。僕は細川さんに謝りそびれたことに気づき、でも逆に謝らなくて良かったのかもしれないと、そんなことを考えながらしばらく海を眺める。
やがて、僕も立ち上がってベンチを離れた。向かう先は公園の出口ではなく、駐車場。端に停めてある青い乗用車に近づき、助手席のドアを開けて中に入るなり、運転席の兄ちゃんが僕に声をかけてきた。
「終わったか?」
「うん。ケリつけてきた」
「そうか。頑張ったな」
頑張ってない。頑張ったのは細川さんだ。僕はただ、引っかかっていることを片付けてから気持ち良く初めてのデートに赴きたいという、自分の欲望に従っただけ。
「兄ちゃん」
「ん?」
「幸せになろうね」
兄ちゃんがきょとんと目を丸くした。それから左手を伸ばし、僕の頭を撫でる。
「そうだな」
◆
デートの時間は、あっという間に過ぎていった。
兄ちゃんの運転する車で近く観光地を回る。それだけのことが本当に楽しかった。地球の自転速度が何倍にもなったと思えるぐらい、すぐ帰る時間になった。「そろそろ帰るか」と言われた時は「もう!?」と言ってしまったし、「時間見ろ」と車の時計を指さされた時は、半ば本気で時計がズレている可能性を疑った。
「帰る前に、秘密の場所に連れてってやる」
そう言って兄ちゃんが僕を連れて行った場所は、兄ちゃんの住んでいるアパートから少し離れたところにある砂浜だった。狭く入り組んだ道を抜け、車から降りた後もだいぶ歩いてやっとたどり着いたその砂浜には、夏真っ盛りだというのに人が誰もいなかった。波打ち際に肩を並べて座り、夕焼けに染まる海を僕たち二人で独占する。
「綺麗だろ」
「うん」
「俺の癒しの場なんだ。疲れた時はここに来て、一人で音楽聴いたりしてる」
「クイーン?」
「それが多いな」
兄ちゃんがズボンのポケットに手を入れ、中からワイヤレスのイヤホンを取り出した。片耳分を僕に渡し、スマホを弄りながら尋ねる。
「なに聴きたい?」
「兄ちゃんの一番好きなクイーンの曲」
「自力で当てるのは止めたのか?」
「あれは話題作りのための口実。もう兄ちゃんは僕のものになったからいいの」
「俺はお前のものか」
兄ちゃんが愉快そうに笑った。そしてスマホをポケットにしまい、同時に僕の左耳のイヤホンから音楽が流れる。イントロのピアノが聴こえた瞬間に分かった。僕も好きで、よく聴く曲だったから。
「『トゥー・マッチ・ラブ・ウィル・キル・ユー』」
「予想は当たったか?」
「ううん。もっと初期のやつだと思った。これ、フレディが亡くなった後に発表された曲だよね?」
「『メイド・イン・ヘヴン』収録だから、そうだな」
アルバムのタイトルを耳にして、兄ちゃんから貰ったCDのジャケットがふっと脳裏に浮かんだ。夕焼けの湖畔と向き合い、右の拳を高々と突き上げるフレディの背中。あれは湖だし、ジャケットは朝焼け版もあるらしいけれど、どことなく今僕たちが眺めている景色に似ている。
「兄ちゃんは、どうやってここを見つけたの?」
兄ちゃんの顔が曇った。どこか言いにくそうに唇を動かしながら、砂浜のすぐ傍にある、海に向かって突き出た高台を指さす。
「そこに、岬があるだろ」
「あるね」
「あそこから飛び降りて死のうとして、見つけた」
曲が終わった。
固まる僕の耳から、兄ちゃんがイヤホンを外した。自分の耳からも外して合わせてポケットにしまう。音楽を聴きながらする話じゃない、ということだろう。僕は上目づかいに兄ちゃんを見やり、おそるおそる尋ねた。
「……どうして?」
「嫌なことがあったんだ。まあ今考えると、単なるポーズだよ。本気で死のうとなんてしちゃいなかった」
「何があったの?」
「うーん……ちょっと説明が難しいんだよな」
兄ちゃんが首をひねる。そして近くに落ちていた木の枝を拾い、砂の上に線を引き始めた。横長の長方形を一つ描き終えたところで、僕に尋ねる。
「お前、
「知らない」
「だよな。重複なく、漏れなくっていう、ロジカルシンキングの手法だ。定義から入っても難しいと思うから、具体例で説明するぞ。この四角が『お前の学校に通っている人間』を表現していると思ってくれ。そこで――」
兄ちゃんが長方形の真ん中に線を引いた。一つの四角形が、二つに分かれる。
「こうやって二つに分ける。それで片方を『先生』、もう片方を『生徒』とする。この分け方は正しいか、正しくないか。どっちだと思う?」
「どういうこと?」
「『お前の学校に通っている人間』は『先生』と『生徒』だけかってこと」
「違う。給食室の人とかいるもん」
「そうだな。『先生』と『生徒』じゃ足りない。漏れがあるんだ。だからこの分類は重複なく漏れなくというMECEが成立していない。ここまでは分かったか?」
僕はこくりと頷いた。兄ちゃんが「よし」と言って説明を続ける。
「じゃあ次の質問。片方を『学校からお金を貰う人』、もう片方を『学校にお金を払う人』にしたらどうだ。この分け方は正しいか?」
考える。正しいような気はする。だけど、さっき兄ちゃんは「漏れ」の例を説明した。ならば次は「重複」の説明があるはずだ。となると――
「――正しくない」
「どうして」
「先生も給食費を払ってるって聞いたよ。だからどっちにも入るよね」
「その通り。学校にお金を払いながら、学校からお金を貰っている人がいる。つまりこの分類には重複があるんだ。だからMECEが成立していない。さて、最後」
兄ちゃんが枝の先で、左の四角形と右の四角形を順番に指した。
「『20歳以上の成人』と『19歳以下の未成年』。これならどうだ」
「MECEが成立してる」
「早いな」
「だって最後なんでしょ。じゃあ成立してる例が出て来るに決まってるじゃん」
「いやらしい解き方だなあ。まあでも、正解だ。『お前の学校に通っている人間』は一人残らず『20歳以上の成人』か『19歳以下の未成年』のどちらかになる。だからこれはMECEが成立している。以上、分かったか?」
「分かったよ。けど……」
「けど?」
「分かったのはMECEで、兄ちゃんが死のうと思った理由は分からない」
はぐらかそうとしてるなら止めてよね。視線でそう訴えかける。兄ちゃんが頬をゆるめ、僕の頭をぽんぽんと叩いた。
「それは、これからだ」
兄ちゃんが木の枝を砂に置いた。そして眠たそうな目で、二つに分かれた四角形を見つめる。
「MECEはマーケティングみたいな、戦略立案の場面でよく使われる考え方なんだ。例えばターゲットをMECEで分類して、どこを狙うみたいな話をしていく。まあ要するに大人が仕事で使うってこと。それはなんとなく分かるだろ」
「うん」
「俺も仕事の先輩から教わった。そんで俺は、その先輩のことが好きだった」
好き。
いつの話? どういう人? 今も好きなの? 色々なことをぐるぐると考える。だけどまだ聞いてはいけないと、僕は必死に口をつぐんだ。兄ちゃんがほんの少し、自分を嘲るような笑いを口元に浮かべる。
「まあ好きっていうか、尊敬してたって感じかな。この会社で働き続けるならこういう人になりたい。そう思わせてくれる人だった。それで、その先輩もMECEを教える時、さっき俺がやったみたいに具体例を使って説明したんだ。ただ先輩は俺と違って最初に『こういうのがMECEだ』って例を出した。どういう例か想像つくか?」
僕は首を横に振った。分からないという以上に、口を挟んではいけない気がした。兄ちゃんが四角形から目を離して、海を見やる
「男と女」
夕焼けが、ほんの少し、濃くなったような気がした。
「仕事で使う分にはそれで困らないから、実用上は間違ってないんだけどな。ただ、実際は違うだろ。男とも女とも言い切れなかったり、男でも女でもあったり、そういう人たちがいるだろ。俺は自分のことを男だと思ってるから、そういう分類をされても困らないけれど、そうじゃない人がいることぐらいは知ってる」
兄ちゃんが後ろに手をつき、身体を仰向けにのけぞらせた。茜色の空を見上げながら、天上の神さまに向かって言葉を吐く。
「そんで、ここからは俺の被害妄想だけど、そうやって世界を真っ二つにすることに抵抗がない人なんだから、『男は女が好き。女は男が好き』って世界観で生きてるんだろうなと思ってさ。そう考えたら、色々、一気に、どうでもよくなったんだ。投げやりな気持ちになってそこの岬に行って、砂浜が見えたから何となく下りてみて、あまりにも静かで綺麗だったから俺の大切な場所になった。そういう流れ」
兄ちゃんが僕の方を向いた。何か感想を求めているようにも、何を言わないでくれと訴えているようにも見える。嬉しいのか悲しいのかすら分からない。口元は穏やかにゆるんでいて、目元は寂しげに垂れさがっている。
兄ちゃんの言うことは、分からなくもない。
たぶん兄ちゃんにとってその先輩は、僕にとっての兄ちゃんと同じだったのだ。僕が兄ちゃんからひどい言葉を、例えばいつか父さんがいじめで自殺した子のニュースを見て言った「こういうのはいじめられる方にも問題があるんだよな」みたいな言葉を聞いたら、僕はしばらく立ち直れなくなる。父さんから聞く分には何のダメージもないけれど、兄ちゃんから聞いたら大ダメージだ。そういうのは理解出来る。
でも――
「兄ちゃんって、頭いいのに頭悪いよね」
僕はやれやれと、大げさに肩を竦めてみせた。そして兄ちゃんが置いた木の枝を持って立ちあがり、きょとんとする兄ちゃんに告げる。
「誰かが引いた線なんて、どうでもいいじゃん。せっかく面白い考え方があるんだから、自分の好きなように線を引き直せばいいんだよ。こんな風に」
僕は枝の先を砂に当て、兄ちゃんの周りをぐるりと回った。よれよれの楕円が描かれ、兄ちゃんがその右側にすっぽりと収まる。そして僕は楕円の左側、兄ちゃんの隣に座って小さく囁いた。
「分かる?」
兄ちゃんが「いや」と首を振った。僕は勝ち誇ったように言い放つ。
「『僕たち』と『それ以外』だよ」
全く新しい、世界を二つに分ける線。兄ちゃんが口元を柔らかくほころばせた。そして僕の肩に手を回して抱き寄せ、暗くなりかけている海を見やりながら語る。
「いつか一緒に、あの海の向こうに行こう」
海の向こう。ここではないどこか。
「お前が大人になったら海の向こうで結婚しよう。俺たちを認めてくれる国に行って、二人でずっと幸せに暮らそう。そのためにどうすればいいか、調べておくよ」
分かってないなあ、と少し思ってしまった。まだ他人が引いた線に拘っている。国が同性婚を認めているとか認めていないとか、そんなのはどうでもいいのだ。だから僕は僕たちだけの線を引き直したのに。
「どこに行くの?」
湿っぽく尋ねる。兄ちゃんは僕の肩を抱く手に力を込め、はっきりと答えた。
「お前と一緒なら、どこでもいいよ」
――そう、それが正解。
目をつむり、顔を上向かせる。唇に唇の感触が当たる。まるで天国にいるみたいに、満ち足りた気分だった。
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