争うおれ/わたしたち(2)

 軽いストレッチの後、おれたちはマラソンのスタート地点を定め、そこにおれと高岡で二人そろって並んだ。

 両サイドにはおれたちの上着を持った直哉と小野がいる。ついでにその辺を歩いているやつらが「何あれ」という感じでおれたちを見ている。おれはこれから進む先を真っ直ぐに見据え、爆速で走る自分の姿をイメージし、心の準備を整える。

 高岡の足が速いのは分かった。高岡と小野がバスケ部だという情報も聞いた。だが勝負はマラソンだ。トップスピードよりも持久力が要求される競技。瞬間的な速度が要求されるバスケットボールとの相性は、決して良いとは言えない。

 勝ち目はある。勝てる。勝つ。負けるわけがない――

「そろそろスタートするぞー」

 自己暗示に没頭している俺を、直哉が現実世界に引き戻した。いいところだったのに。不満を覚えながらも、頭を切り替える。

「位置について」

 右足と右腕を前に出し、腰を落として足のバネに力を溜める。同じ体勢を取った高岡が、前を向いたまま「五十嵐」とおれに話しかけてきた。

「よーい……」

「なんや」

「オレ、勝ったら純くんに告るから」

「ドン!」

 高岡の背中が、すさまじい勢いで遠ざかって行った。

 古典的な手に引っかかってしまった。出遅れたおれも慌ててスタートを切る。高岡との距離は縮まらないが、離されることもない。これでいい。序盤はこれをキープ。高岡だって終盤になれば体力に陰りが見えるはずだ。そこを突く。

 石畳にスニーカーの底をぶつける。冷たい風の中を突っ切って走る。ペースを乱されるような勾配はない。ストライドとピッチを一定に保ち、高岡を追い続ける。

 進行方向に大阪城が見えた。堀周辺の道に出て、左に曲がる。折り返し地点。まだ前を行く高岡のペースに乱れはない。そして、おれは――

 ――キッツ……

 脇腹にしくしくと痛みが走る。気道を通り抜ける息に、砂を吐いているようなざらつきが混じる。まだ走行距離にしておそらく一キロ未満。普通に走っていればこの程度の距離でこんな風になることはない。でもこうなっている理由はシンプルで、普通に走っていないからだ。単純に高岡が速すぎる。

 残りのコースも短い。そろそろ差を縮めないと逆転の目がなくなる。おれのその焦りを察したように、高岡がいきなり大きくペースを落とした。

 ――チャンス!

 おれは内ももに力を入れ、ストライドをさらに広げた。ピンと張っているゴムがさらに引き延ばされ、糸がほつれるように端がちぎれるイメージが脳裏に走る。それでもおれは速度を緩めず、高岡の背中に迫った。

 高岡の横に並ぶ。ぜえぜえと息を吐きながら、走る高岡の横顔を見やる。額に汗をかき、頬を上気させながらも、激しく息を乱してはいない。おかしい。明らかにペースは落ちているのに。こいつ、もしかして――

 高岡が、走りながらおれの方を向いた。

「大丈夫か?」

 ――この野郎。

 思った通りだ。こいつは自分の勝利を確信して、どうせまた引き離せるだろうとわざとおれに追いつかせた。おれを煽るために。

「無理すんなって。すげえ顔になってるじゃん」

「無理……しとらん……わ」

「しゃべるな。死ぬぞ」

「アホ……か……」

「なんでそんな必死なんだよ。まだ純くんと出会って三か月とかだろ」

 火照る脳みそに、高岡の冷静な声がすっと入り込む。

「お前、なんで純くんのこと好きなの?」

 おれの足の動きが、ほんの少し鈍った。

 純を好きな理由。そういえば、なんでだろう。一緒に大きな何かを成し遂げたとか、大切な何かを二人で分け合ったとか、そういうことは欠片もない。というかよく考えると、いい思い出がほとんどない。告る前も告った後も険悪だ。見舞いに来た純を襲い、頭突きから鳩尾にストレートを喰らったことは今も記憶に新しい。

 たぶん、無理やり分類するなら「一目惚れ」になるのだろう。教室の前で堂々と自分を語る純から目を離せなかった。輝きに目を惹かれ、眩しすぎて目が痛いと文句をつけ、好意と悪意が混ざり合い、悪意が消えて好意が残った。その結果が今だ。たぶんあと少し間違えていたら、おれが先陣を切って純をいじめていたような、そういう展開だって起こり得た。

 その程度のおれが、純のために必死になる理由があるだろうか?

「こっちは十二年だぞ。お前の……えっと十二を三で割って十二倍だから……四十八倍だ。いいだろ。諦めろよ」

 十二年。俺の約五十倍。それだけの想いを積み重ねてきた高岡に、突っかかる権利がおれにあるのだろうか?

「今もムキになってるだけで、言うほど好きでもないんだろ」

 おれは、大きく息を吸った。


「やかましいわ!!!」


 石畳を、強く蹴る。

 蹴った反動で身体を前に飛ばす。乳酸を大量に蓄積した足に負荷がかかり、つんのめって転びそうになるのを懸命にこらえる。ダメだ。今は、今だけは、絶対に転んではいけない。

 ――知るか。

 好きになった理由とか、出会ってからの年月とか、知るか。そんなものはどうでもいい。大事なのはおれだ。今ここで走っているおれだ。おれが負けたくないと思っている。それ以上に優先させるべきものなんて、あるわけがない。

 昔のおれなら、もっとうじうじ考え込んだかもしれない。自分にはどうしようも出来ないものに捉われて、振り回されていた、過去のおれだったら。でもおれは変わったのだ。まずは自分に出来ることをやろうと思えるようになった。そういう風におれを変えたのは、純だ。

 んなら、ここで余計なこと考えてたら、純に失礼ってもんやろが。

「っしゃああああああああ!!!」

 機関車が炭を燃やして煙を吐くように、叫び声を出して速度を上げる。狭まる視界の中に、直哉と小野の姿が見えた。あの二人の間がゴールライン。高岡は――

 ――いい。

 考えない。

 おれは、おれのスピードで、ゴールラインを割るだけだ。

 足を踏ん張る。体幹を整える。速く走る。それ以外の全ての思考を捨て去り、頭の中を真っ白にする。

「ゴーーーーーール!」

 直哉の声が、寒空に響いた。

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