止まる世界(4)


 文化祭二日前。

 もうここまで来ると、やることはほとんどない。商品開発の名目でたこ焼きを作って食べているだけだ。粉の焼ける匂いと音が立ち込める教室で床に座ってスマホを弄っていると、頭の上から聞き覚えのある声が降ってきた。

「明良」

 顔を上げる。秀則、史人、そして――安藤純。おれはスマホをポケットにしまい、ぶっきらぼうに答えた。

「なんや」

「これ、試食たのむわ」

 史人がたこ焼きの入ったプラスチックケースを差し出した。おれはつまようじの刺さっているたこ焼きを持ち上げ、口に放り込む。舌にまとわりつくソースの味、カリカリに焼けた表面の触感、そして――

「――ぶほっ!」

 とんでもない辛みが口内に広がり、おれはたこ焼きを吐き出した。史人が「きたなっ!」と叫んで一歩引く。秀則が腕を組み、安藤純に話しかけた。

「ほら。入れすぎ言うたやん」

「あれぐらいなら行けると思ったんだけど……」

「ドSすぎるやろ。八割からしやったで」

「八割は言い過ぎだって。六割ぐらいでしょ」

 何となく、流れが読めた。史人がゲホゲホと咳き込むおれに向かって、上機嫌に話しかけてくる。

「新商品、ロシアンたこ焼きの試食にお付き合い頂きありがとうございます」

「……ぶっ殺すぞ」

「進歩は犠牲の上に成り立つもの……仕方なかったんや……」

「せめて選ばせろや!」

「選んだやろ。俺はようじ刺さってるの食えとは一言も言っとらんぞ」

「屁理屈――」

 声を荒らげようと息を吸うと、喉にへばりついていた辛みがまた刺激された。言葉を切り、再び咳き込む俺の耳に、コバリンの能天気な声が届く。

「おー、ええ匂いがするなあ」

 顔を上げた瞬間、教室に入ってくるコバリンと視線がぶつかった。四つん這いのおれとそれを取り囲む三人という構図を目にしたコバリンが、怪訝な表情で俺たちに近づいてくる。

「なんや、いじめか」

「試食です。先生も良かったらどうぞ」

 きっぱりと言い切る史人に、おれは軽い殺意を覚えた。コバリンが史人の抱えているプラスチックケースを見やり、おれが口にしたものとは別の、つまようじが刺さっているたこ焼きに手を伸ばす。

 その時だった。

「待ってください!」

 巨大な声が、教室をびりびりと揺らした。秀則と史人が驚いたように声の主――安藤純を見やる。「お前、そんな声出せたんか」。そういう表情。鏡がないから分からないけれど、俺も間違いなく同じ顔をしているだろう。

「これ、からし入りなんで、こっち食べて下さい」

「からし? なんでそんなもん作っとんや」

「ロシアンルーレットみたいな、お遊び用に売り出すつもりなんです」

「ははあ。なるほど。ほんで、このようじ刺さっとんのがハズレっちゅうわけか」

「はい」

「まんまとはめられるところやったわ。ほんま、情のない奴らやで」

 コバリンがようじを引き抜き、別のたこ焼きに刺した。そしてそれを口に運び、うんうんと頷く。

「美味いやん。これ、安藤が作ったんか?」

「はい」

「こんだけできれば大したもんや。名誉関西人に認定したる」

 安藤純が嬉しそうにはにかんだ。あいつにしては珍しく、剥き出しの感情が表に出ていて、なぜだか無性に腹が立つ。なんや、それ。いつもと態度が違いすぎるやろ。でもそういや、直哉のやつが――

 ――ショタコンとか、老け専とか。

「お前、コバリンのこと好きなん?」

 安藤純の顔から、さっと笑みが引いた。

 どうやら当たりのようだ。なんてわかりやすい。俺は安藤純の肩にポンと手を乗せ、大げさに首を横に振ってみせた。

「それは無理やろ。コバリン、バリノンケやで」

「いや、僕は別に――」

「コバリンもきちんとフッたってや。かわいそうやし」

「ん? おお。俺はお前らのことは好きやけどな、カミさんとガキの方がもっと好きやねん。離婚されてからまた頼むわ」

 コバリンが顔の前に手を立て、謝罪のジェスチャーを示した。そして「じゃ、しっかりやれよー」と言い残して教室を去る。おれはその背中を見送りつつ、「ふられたなあ」とからかいながら、安藤純に視線を移した。

 この世の終わり。

 うな垂れ、床を見つめて固まっている安藤純の様子を一言で表現するならば、まさにそれだった。ずっと大事にしていたものが取り返しのつかないところまで壊れてしまった。そんな態度に、おれは動揺する。

「なにガチへこんどんねん」

「……いや、別にへこんでるわけじゃないけど」

「へこんどるやろ。ワンチャンあるとでも思っとたんか?」

「……そんなわけないでしょ。ちょっと、トイレ行ってくる」

 覇気のない足取りで安藤純が教室から出ていった。と同時に、おれの後頭部に衝撃が走る。「いたっ!」と声を上げて振り返ると、呆れ顔の秀則が、俺をはたいた手を振りながら口を開いた。

「なにやっとんねん、アホ」

「はあ?」

「デリカシーなさすぎや。あいつのこと好きなんやろーって、小学生か」

「まあ、しゃーないやろ。明良、ガキやし」

 史人がのっかってきた。デリカシーがない。ガキ。散々な言われように、おれもムキになって口を尖らせる。

「あんなん、適当に流せばええやん。あいつだって本気で狙ってたわけやないやろ」

「流せんやろ」

「なんで」

「言わなわからんか?」

「わからんな。教えてくれや」

「……マジでガキやな」

 秀則がこれみよがしに盛大なため息をついた。史人もその横でやれやれと半笑いで肩をすくめる。なんやねん、お前ら。ずっと友達だったおれより、あんなポッと出の転校生の味方するんか。だいたい――


「あいつがきっしょいホモ野郎なん、おれの知ったこっちゃないわ!」


 沈黙。

 おれの叫びが、教室中の全員を黙らせた。男子も、女子も、動いていたやつも、止まっていたやつも、みんな口をつぐんだ。そしてみんなでおれを見やる。絶対に言ってはいけないことを言ってしまった。それが分かる視線を、おれに送る。

 ホットプレートの上で油の弾ける音が、静寂に満ちた教室にぱちぱちと響く。かっかと火照っていた脳みそが急速に冷えていく。秀則が後頭部に手をやり、髪をくしゃくしゃと掻きながら呟いた。

「誰かが言ったら、はっきり注意せなあかんとは思っとんたんやけどな」力のない、残念そうな声。「お前がいっちゃん最初か」

 秀則がおれに向かって歩いてきた。おれはびくりと肩を大きく上下させて身構える。しかし秀則は足を止めることなく、すれ違いざまに一言呟くだけで、おれを通り過ぎた。

「頭冷やせや」

 秀則が教室から出ていく。おれは何も言えず、できず、ただ一人で立ちすくむ。やがて教室のここそこに話し声が戻り、秀則と安藤純が一緒に帰ってきたのと同時に、おれはこっそりと場を離れてあてもなく散歩を始めた。

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