霧を祓い、霧を渡る


 走る。走る。走る。


 あれに打ち勝つのは無理だと悟った。

 目が霞む。出血は酷くないが怪我の一つで彼我の戦力差はかなり開いた。

 そもそも痛痒を感じるかも判らない相手に打ち込み続けるのは下策でしか無い。


「追いかけては来てる」


『だが、流石に速度は出ないようだな。――問題はこの先だ』


 それほど長い間の剣戟では無かったが、霊魔が集まるには十分な時間であった。先には少ないが、後には夥しい数の霊魔が群れをなしている。

 整備された石畳のおかげで足をもつれさせることは無かったが、既に呼吸も乱雑になり、進む足もついには止まってしまう。


「あれを倒せるのはそうさな……。夕京五家の当主か」


 足に鉛でもつけているのかと感じさせる程に地面から離れようとしない。

 逃げる以前にここで霊魔に遭遇したら戦うことすら儘ならない。それだけはやってはいけない。体の様子に半ば諦めるように休むことを決めた。


「後はそうだ……百鬼なきりの兄さんか」


『百鬼の一門か。俺も幾らか前の主から聞いたことがある』

 

「へえ……? 〈霧渡り〉と話せる状況なら、それほど良くない頃があったのか」


『数代はそれ程霊魔が活発ではなかった。正しくは花守達の働きのおかげだが』


 何度か顔を合わせたことがある男の顔を思い出す。

 噂程度でしか話は聞いていなかったが、霊魔を狩る事に特化した一門だと。

 何かに特化するという意味では霧原家と似たような境遇なのだろうかと考える。歴史の深さは圧倒的に百鬼に軍配が上がる。

 椿かれがひとでなしと呼ばれている事を思い出してもそこに優劣や貴賎は感じなかった。それだけの研鑽がどれほどの意味を持つかを、春雪に推し量るすべが無いからだ。


「僕もそうだ。ここで投げる訳にも行かない」


 手の汗を服で拭い、軍服のボタンを一つ外す。

 荒く深呼吸を繰り返し、手近な家屋の壁へと背を預ける。


丸奈川まながわまで出て、橋を目指そう」


 現在位置ははっきりしていないが、霧原の屋敷は深山みやま小谷こたにの区境に近い場所にあった。そのまま西へと抜けるのであれば対岸は柊橋ひいらぎばしだ。その間には橋があり、無事であればそちらを抜けるしかない。

 桜路町おうじちょうまで抜ければこの様な事態に〈夕京五家〉が集まっている可能性が高い。

 まだ見えもしないが、目的地を定めたほうが良い。終わりが見えない状況で動き回っても心労が溜まるだけで良い事に働かないのは明白だ。

 同意も反対ももともと無い。自分で口に出して意識を確りとさせるための言葉。

 手拭いで右目の目元の血を拭い、覆うように縛る。出血が少ないとしてもこのまま止まらなければ時間の問題だ。


『ここまで霊魔が辿り着くまでにはまだ少し時間がある。今のうちに息を整えておけ』

 

 井戸を見つければ足元が覚束ないまま近づき、釣瓶を使い水を汲み上げ頭からかぶる。


「最高に生きている感じがするな、最悪な事に」


 空笑い。水が滴る様子を残った左の目が虚ろに眺め、もう一度釣瓶を井戸へと落とした。水に落ちる音が心地よかった。水音が現世を感じさせる。

 なんとなく、煙管を取り出す。ここには居ない妹の事を想う。

 取り出した煙管がするりと手を抜けて落ちた。

 相当疲れているな。と苦笑しながら刀を握っていない左の手を煙管へと伸ばす。


「……!」


 


 目眩でも起こしたのかと、きつく目を閉じ、もう一度開いたときにはなんとも無かった。


『ハルユキ……』


 心配そうな声がする。彼か彼女かは解らないが心配してくれているのか。と少し笑う。しかしその声が春雪に理解させる。

 霊障によってのだ。

 瘴気に浸かり過ぎた事によって人は霊魔になる。霊障を軽減する外套インバネスがあったとしても、これだけ濃密な場所では守り切るのは難しいだろう。

 元々こういうものなのか、霧原の血がそうさせるのか、〈霧渡り〉の影響なのか、それとも全部か。

 覚悟は済んでいる。手を伸ばし煙管を掴み上げれるのを確認すれば、煙管に傷が付いていないかを確認した。


「なに、こうなる事は織り込み済みさ。十分に休憩はしたよ。行こう」


 一度だけ深呼吸すれば、足早に橋へと向かう。

 まだ体は動く。腕は上がる。

 列をなした霊魔の塊を叩き斬り、人ほどの大きさの犬の形をした霊魔の首を切り落とし、人型の霊魔を地面に縫い付ける。

 気がつけば傷が一つや二つではなかった。あらゆる所から血が流れ、外套も血塗れで返り血なのか己の血なのかも判らなかった。

 少しずつ歩みを進める。甲冑姿の霊魔が来ないのが幸いだった。


『ハルユキ。川が見えたぞ』


 上げるのも辛くなってきた顔をあげる。

 

「まさしく此岸と彼岸だな……。橋は無事だけど」


 対岸――柊橋の様子を見た所、正直に言えば無事には見えなかった。

 ここに比べて幾分ましか、同じか。どちらにしろ進む足を止める理由はない。

 お誂え向きに、霊魔の姿は見えない。〈霧渡り〉も何も言わない様子からすぐそこに危機は無いように思えた。


「今のうちに抜けるしか無い」


 深呼吸一つ。太腿を叩き、裂帛の気合を入れる。

 一気に走り出し橋の下までやってくる。

 壊れてもいないし、足元にも不安はない。後に迫る瘴気を気にせずに走り続ける。

  

『これはまずいぞハルユキ』


 〈霧渡り〉が声に危機を潜ませる。

 気付いた、既に遅い。


「まあ、そうなるよな。此処だと二つ塞げば逃げ場所もない」

 

 一分も経っていないが、橋の向こう側。そこの霊魔が近づいていることが判る。

 完全に挟まれてしまった。


『すまない。俺が注意していれば』


「気にするな。ここまで来ただけでも上出来さ」


 橋の中央、ゆっくりと霊魔が行進してくる。確実にやってくる死までの時間制限。

 川に落ちても対岸までたどり着けるかも解らないし、そこに霊魔が居たら戦うことも出来ない。

 手詰まりだ。仕方ないな。と刀を構え苦笑いを浮かべる。

 

 ――水音がする。


 これは、水を裂く音だ。

 驚いたように春雪は音の主を探す。

 川の上。川の上流だ。何故こんな時に、こんな場所に船が出ているのか。


――」


 その船の上には、男が居た。

 気付いたのか気付かなかったのかまでは解らないが進行方向はこの真下だ。

 

『ハルユキ。何とか動けるか』


 〈霧渡り〉の声に、春雪は笑みを浮かべる。

 ちら、と船の上の男を一瞥する。今度は目が合った。あの男には見覚えがある。

 百鬼なきりの当主、百鬼なきり椿つばき――。

 別段驚いた顔はしていなかった。こちらも同じだった。

 どういった事情があり、どういった算段でここ通ったかはどうでもよい。


「問題はない」


 文字通りだ。

 分もしない間にここを通り抜ける。一度きりの機会。

 春雪は腰の帯革ベルトから鞘を外し、刀を収める。


『ハルユキ。何をしている』


 〈霧渡リ〉が焦りの声を出す。

 当然のように収めた刀を右手で確かめる。

 既に春雪には左腕の感覚がない。


灯花いもうとを頼むよ。いい子なんだ。もし出会うことがあれば護ってやってくれ」


 船が下を通る。今ここを逃すと次はない。


『早く、飛び降りろ――!』


 ――その声は既に契約者から離れていた。

 

「僕が降りると、霊魔もその船に殺到しかねない。これが今の最善だよ〈霧渡り〉」


 船の上に刀が落ちる。誰かがそれを掴んだ。


「ありがとうな」


 それだけは聞こえた。


「百鬼の兄さんよ。存分に使ってやってくれ!!」


 独白に近い叫び。

 

 霊魔が集まってくる。

 その手には既に半ばで折れている刀霊あまぎりを握る。


「まだもうちょっとだけ手伝ってくれるか」


 折れたばかりだ。まだ霊力が温かみが残っている。

 感覚が殆ど無い左手で煙管を取り、火をつける。

 紫煙がゆっくりと上がっていく。

 かつ、かつ、音を立て霊魔へと近づいていく。


「霧原春雪の最期の仕掛け、とくと御覧じろ――」

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