伊藤葵の判明
私は記憶を欠落している。覚えているのは『伊藤葵』という名前だけだ。伊藤葵の性格は優しかったか辛辣か。その些細な違いさえ不明だから、私が私として生きられない。これでは伊藤葵で高校二年生の意味がない。途方に暮れて一週間たった。しかし、一筋の光がさす。
彼女に再開できた。
『私があなたの記憶を取り戻してあげる』
五十嵐沙織は記憶喪失前の私と知り合いだった。この発言までに逃げられたけど、引き出せるなら越したことは無い。条件は指輪の交換だ。指輪は記憶喪失を取り戻すために使うつもりだったが、手順が簡略化されると思えばわかりやすい。これは彼女だけを頼りにした綱渡りだ。でも、それが私の与えられた使命だから全うしたい。まずは彼女が私に何を求めているのか理解する。そのために行動を起こしたい。
彼女に約束された翌日。時間が昼休みになり、彼女の教室まで歩いた。昼ごはんを一緒に食べることで関係を深めようと考えている。そうすれば見えてくるものがあるはずだ。早く添えるような人間になる必要がある。
「ねえ」
教室の扉で誰がいるか見回した。すると、彼女の姿がいない。廊下へ出ようとする男子を捕まえた。
「五十嵐さんってどこに行ったのかわかる?」
「ああっ。彼女は休みですよ」
金曜日に会えなかった。これは三日のロスがある。どうしたら穴埋めできるかわからない。
「どうしよう」
「沙織なら休み」
女子のふたりが私のところまで向かってくる。たしか五十嵐さんを呼んだら不審な目だった人たちだ。
「初めましてかな。伊藤葵さん」
「こうやって話すのは初めてだね」
彼女らは美佳と麻衣と名乗った。どうやら五十嵐さんと親密な仲らしい。彼女なら私の知りたいことを把握できる。
「彼女に何か用?」
「え?」
「なんであの時呼んだの?」
美佳さんが目で訴えてくる。私の心を見透かすために強い力がこもっていた。
「美佳。顔が怖い」
「だって、沙織に何かしそう」
「聞きたいことがあるなら、一緒にご飯を食べようか」
美佳さんは反対した。けど、願ってもない状況だから承諾する。手に持った弁当をぶらさげて五十嵐さんの席の横に立つ。
「どうしたの?」
「な、何でもない」
理もなしに座っていいのか。後できもちわるとか思われたらどうしよう。彼女に嫌われたくないな。いや、ふたりが探ろうとしている。平然と座ろう。
「美佳。沙織に何か持っていこうぜ」
「バナナアイス買ってあげよ」
「バナナアイス好きなんだ……。可愛い」
コンビニ弁当を広げて、チキン南蛮に箸をつける。
「葵さん。記憶は戻ったの?」
「なんで知ってるの!」
「沙織が話してたよ。あなたのことが怖いって」
「……」
私なんで嫌われている。まだ何もしていないし、きっかけを取り付けようとしただけだ。もしかして今は私を避けるために休んでるかもしれない。
「……、葵さんってわかりやすいね」
「な、何のこと?」
「ねえ、なんで伊藤さんは沙織のことを付け回すの」
「付け回して、ますね」
自分の記憶が戻っていないこと。彼女が何かを知っているということを包み隠さず明かした。
「へえ、沙織を利用するんだ」
「美佳。いい加減にしてね」
反論せず卵焼きを口に頬張る。口はハムスターみたいに動いていた。
「美佳さんの言った通りです。私は彼女を利用しようとしてます。でも、決して踏み台的な意味じゃなく。ただ仲良くしたいのは本音です」
「何で美佳に敬語なの」
彼女が怖くて、態度を萎縮してしまう。
「私ね、沙織のことが好きなの」
「過剰すぎだよな。葵さんもそう思うでしょ」
「葵ですか」
「いま美佳の話ね?」
「すみません」
「美佳は彼氏と同じぐらいに好きなの。でも、わたしは彼女と生涯は過ごせないと思う」
橋を握る手が強くなり、ミートボールにくい込んでいる。
美佳さんは五十嵐さんに真剣なんだ。それは恋愛や友情を混ぜた青春。その重みを誰も鼻で笑えない。
「だからこそ、傷ついてほしくない。傷つけたら絶対に許さないからね。その意味、わかった?」
傷つけることをしたら許さないからね。暗に釘を刺されてしまった。
わたしは彼女を傷つけるつもりはない。ただ伊藤葵を知ることが彼女のためになる。
「美佳さんの気持ちはわかりました。そして、私は彼女を傷つける意思はないし、これからもしません。ただ、知りたいんです」
コンビニ弁当は冷えている。米粒はタルタルがしみて味がついていた。
「葵さんは悪いやつじゃないよ」
「わかったって」
サラリと会話が流れた。重い荷物を持っていたのに、忘れたかのように平然としている。その流し方に、その関係に憧れてしまった。だから、沙織さんも自分の気持ちを表出できたのかもしれない。
「一つ聞きたいことがあるんだけど、美佳さ、美佳いいかな?」
「なに? 葵」
顔色は変わっていない。それは嫌じゃないということだ。
「五十嵐さんって過去に何があったの」
「この街に引っ越してきたの。昔の学校で何かあったらしいよ」
ああ、そういうことか。
それなら質問の意図も汲み取れる。だったら、私は行動を決められるだろう。
「ありがとう。それと、五十嵐さんに連絡先を教えていいか、聞いてもらっていい?」
「この麻衣に任せとけ」
彼女は承諾してくれた。携帯の通知で微笑みそうになるから、無表情を心がける。
『体調は平気?』
『明日には復活する』
『どこか遊びに行かない?』
『日曜に行こう。こういう約束はすぐに済ませたい』
私は彼女のなりたい人になれる。それは喜びだった。そのための伊藤葵だから。
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