伊藤葵は託す
昨日は怒涛の1日だった。願いを叶えるための指輪を手渡され、スーシャという幽霊が願いを奪いに来る。幻想使いが手助けしてくれて、初戦を退けた。彼女は乗っ取られたことを覚えていない。調子も悪くなく、その後は麻衣を無事に送り届けた。
現在は授業中だ。退屈な内容を聞き流しながら、ペンを回す。
「指輪は願望の強いものに届く」
幻想使いの言葉を復唱した。手元には指輪が存在せず、返還して戦いから放棄している。もう私は世界を変えることは出来ない。周りを傷つけるぐらいなら自分のわがままは通せなかった。
「もしもーし」
「スーシャ怖かったなー」
「もしもし」
「五十嵐さん」
教室の扉側に呼ばれ首を横にする。後ろの扉は手を振っている女子がいた。
「伊藤さん!?」
時計をしきりに見る。時間は授業中を指し示し、先生は黒板に書き取ることに夢中だ。生徒は彼女が廊下にいるから騒然とした。クラスの空気は誰を呼んでいると相手を探している。
「授業中だから、帰りなよ」と、声を出さずに伝える。それでも、伊藤は必死なメッセージを指さして笑った。
「先生。ちょっとトイレ行きます」
「うん」
彼女は自分のクラスに帰ればいいのに、出向かないと動かない人間だ。私はしぶしぶ目立つ行動に出た。
生徒の視線が背中に突き刺さって痛い。もう帰りたいけど、引き返しても先生から怪しまれる。
扉を開けて外に出る。廊下は彼女だけで周りは授業を続けていた。その姿に頭抱えてしまう。
「何してるの?」
「ちょっと話さない?」
「今は授業中」
「勉強は私が教えられるよ」
クラスに戻りたかったけど目線が集まっている。ほかのクラスに見つかったら面倒だし、場所を移動することに決めた。
移動中も伊藤は私の横で歩いている。
「やっと私の誘いに乗ってくれた」
そうか。
そうさせたのは自分だ。
彼女の誘いを二回も断っている。その理不尽さに怒っていないのだろうか。嫌になったら私のことを呼んだりしない。
「じゃあ、屋上に行く階段で座ろう」
5階に到着し、私たちは薄暗い階段に腰掛ける。使われなくなった机は表面が剥がされていたり、足が変形していた。ここは机の廃棄が起きている。
「まずはこれを返すよ」
彼女は胸ポケットからペンを取る。それは私が貸したボールペンだ。
「いつ返そうかなって思ってた」
「ありがとう」
ボールペンを指で回した。黒と赤色を出し入れする。
「五十嵐さんのことを私は何も知らないけど、教えてくれないんだよね」
「ご、ごめん」
「嫌味じゃないよー」
伊藤は足をばたつかせた。階段は明かりが微小に入るから、埃の舞う姿を眺めてしまう。右手を上に出し、袖が重力で落ちた。彼女の腕には時計が巻かれている。
「だから、私のことから教えるね」
「う、うん」
彼女は自分の持つ面白い話をした。道を間違えて変なところを歩いたことや、大家さんと日帰り料したことを嬉々として語る。斬新なオチや培われた教養は私の脇腹を痛くさせた。
私が別れてから楽しいことの連続らしい。苦しんだ日々を引換に、変わらない日常を送っていたことになる。
「何だかなあ」
「あ、五十嵐さん。面白くなかった?」
「面白かった」
「よかった。私が覚えていることなんてこれだけだから」
「伊藤さん。イジメってどう思う」
「イジメ?」
その女は腕を組んで真剣に悩んだフリをしている。答えなんて腹の中で決まっているはずだ。しかし、社会的体裁で取り繕う考えはあるのだろう。私はこの気持ちを知っている。世界への復讐。つまり、彼女への怒りを感じていた。
「私は許せないと思う。どんな理由があってもしちゃいけない」
「ふーん」
言わせた。
心が高鳴り、帰りたい気持ちを押し戻す。
幻想使いに教えたい。私は自分の願望を難解な洞窟の心から引き出したと。
「記憶、取り戻したいんだよね?」
「そ、そうだけど。あっ、違うからね!」
彼女は取り乱して居た堪れない。先生が来ても彼女のせいにすればいいか。
「五十嵐さんを利用して、記憶を聞こうとしてないから」
「べつに利用したっていいよ」
「へ?」
彼女の頬に髪の毛が張り付いている。眉毛は整え方を間違えて端っこに粒のような毛が残っていた。
「私があなたの過去を教えてあげる」
「ほんと?!」
ボールペンのボタンを出し入れした。見てはないから何色か分からないけど、気分的に赤がいい。
「でも、一気に教えたらパンクすると思う。徐々に言ってあげる。その代わり、指輪を私が使っていい?」
「いいよ」
正面に伊藤の指輪が来た。これで貰うのは二度目だ。
等価交換ができてしまった。もう私の正しくなくて、歪んだ願いは叶える方向に舵を切る。
「伊藤さんの願いが叶えられなくなるよ」
「私は記憶を取り戻せるならいい。できるなら、貴方の口から聞きたい」
「優しい人だね」
初対面は私のためにハンカチを敷いた。自分が汚れることを厭わない。
「私は何も優しくないよ。でも、五十嵐さんに言われると嬉しい。何でだろ」
指輪への願いは、五十嵐沙織に伊藤葵が土下座することだ。彼女の指輪で、能力を使って謝罪させる。もちろん、過去に私を虐めたことを教え、緩んだ顔を歪めたい。
そのためなら悪い人間になる。彼女も私を虐めたから、同じ立場になるだけだ。
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