日常の朝

ヘンリー大原

日常の朝

 1. 始まり




朝八時半。ショートカットの女の子を乗せた乗用車が病院に向かっていた。

「急いで、急いで」

助手席で女の子は叫んだ。二十代前半。少し丸顔で愛らしい。

「わかってるって。お前が寝坊したんじゃないか」

運転席の男もやはり二十代初め。目つきは少し鋭いけれど整った顔。

「ね、救急車が来るわよ。道開けなくっていいの」

「開けなきゃいけないけれど、ますます遅れるぜ」

「冗談じゃないわよ。どうしてこんな時に救急車なんか」

「病院だからだろ」

「ふざけてないで急いで。病院は目の前よ。もうすぐ」

「救急車が先だ」

岸本千景は大学を出たばかり、今、目の前にある公立病院の事務員。大学の同期の粕谷浩二とつきあってる。

 今日は月曜日、昨晩浩二のアパートに泊まり、そのまま病院に出勤するところ。

 普通なら送ってもらうなんてことはしない。病院は女の多いところだから。ただ今日は特別。目覚し時計が鳴らなかったせいで遅刻寸前。病院の職員とはいっても事務員なんて他のOLと変わりはない。タイム・レコーダーさえ八時半までに押すことができさえすれば後はなんとでもなる。

「あたし、こっから走る。ドアを開けて」

「危ないぞ。救急車にひかれたなんて、しゃれになんないぞ」

「それじゃあね、目覚ましちゃんと直しといて」

「あれは違う」

浩二が叫んでいたが、聞いていない。時計を見ながら走った。タイム・レコーダーの置いてあるのは更衣室。正面玄関からはいっている余裕はない。救急入口向かって走る。

心臓がえらい。まずかったかな。でもしかたない。走る方を選んじゃった。

病院の中にすべり込む。途端だった。

「はい、道を空けて。道を空けて」

救急隊員がわめいている。

反射的に振り返ってしまった。その余裕はないというのに。

救急入口からはいったのはやはりまずかった。救急車が運んでくる患者と鉢合わせしてしまうことになった。救急隊員まであわてている患者だ。ひどい重体。ぶれてよくみえない。ただ千景の眼に飛び込んできたのはそれだった。けいれんしている肉塊。

まず顔がただの赤い肉の塊。頭があって、手が二本、足が二本、真ん中に胴体。これで人間とわかる。あとはただ動く物体。

千景の頭は完全に空白。足を止めていた。硬直していた。

見れば救急隊もあちこち血を浴びてまだらに染まっている。それがおぞましさに拍車を加えている。咳だ。患者は一秒とおかず咳き込み続け、呼吸器から振動している。

映画ならよくこんな光景がある。ベトナム戦争とかの映画で、野戦病院のシーンだ。地雷にばらばらにされた兵士を担架で運んでくる光景。けれどそれは映画だ。いくら総合病院とはいえ、この日本に、この地方都市に戦場が展開するはずがない。

「すみません。通して下さい」

救急隊員が千景の肩に当たる。

その一瞬。

患者が動いた。いや、それは押さえられていた板が一方にはねるように、それははぜたのだ。

千景のとっての長い一瞬。スローモーションのように光景が動く。まるでコマ送りのように断続的に。

患者の口がやけに近くに見えた。途端はじけた患者。口から飛び散る血しぶき。

熱い、と最初思った。次に正反対に氷のように冷たいと感じた。千景の皮膚全体でこの液体を拒絶していたため。

駆けつけてきた看護師や医師まで悲鳴を上げている。だがそれは一瞬で終わった。

ストレッチャーが通り過ぎた後に。床に血の染み。


やっと理解した。救急患者の喀血が、千景の頬をかすめていった。

ひどい。

千景は頬をぬぐった。生温かい。けれど血液はかぶらなかったようだ。

光景は再反転していた。

悪夢が過ぎ去ってみればやはり日常。病院のせわしない朝。これは現実なんだ。

吐き気がした。それより前に涙がにじんできた。

看護師が一人走ってきた。千景の顔をのぞき込んできた。

「大丈夫ですか」

看護師はいった。年齢は若いけれど千景よりずっとベテランの看護師。西脇という。

「よぉく洗っとかなきゃだめよ。何の病気かわからないけれど、あの人ひどいから。きっと事故だと思うけれど、他に何の病気があるかわからないし」

千景はまたうなずいた。立ち上がった。西脇看護師は治療室の方に走っていった。

ひどい災難。患者に吐血を飛ばされるなんて。

千景は右手を見た。血は飛んでないけれど唾液くらいは浴びた。乾きかけている。ぼうっとしているわけには行かない。早く洗わなきゃ。

少なくとも遅刻の理由にはなる。



千景が去った後、ここは救急治療室内。

患者のもだえが一層激しくなっていた。

患者が咳き込むような、はじけるような動きをするたびに血しぶきが辺りへ飛び散る。気をつけていたけれど、その動きは予想もつかない激しさだった。

もちろんマスクや白衣で防護してあるが、飛び散る咽頭粘液全てを防ぐことはできなかった。看護師の西脇も首に数滴ほど受けた。それはここにいるみんなも同じようだ。

 救急隊員の情報は患者の名前と年齢ていど。そして金曜日にどこか別の個人医院にかかったことも伝えてきた。

研修医二年目の黒川は先輩の医師を電話で呼び出していた。

「わかりません。てんかんみたいな動きをするんです。けれど患者の意識は全くないと思われるんです」

『いったい何だ、そりゃ。外傷は』

「いえ、主たる出血部位は口腔です。つまり気管支か肺だと思われます」

『どうもぴんとこんなぁ。まぁいまの患者さばいたらそっちいってみるわぁ』

地方のベッドタウンとはいえ、人口はもうすぐ二十万に達しようという中堅都市、麻木市。中心の麻木市立病院の朝は人間が全員病気になったのではないかと思われるほどの忙しさ。たとえ救急とはいえ、一人の患者にベテラン医師はすぐまわることはできない。

西脇はそばの看護師に叫んだ。

「だめだわ。腕押さえといて」

血膿を伴った咳が連鎖する。不随意運動を繰り返す患者の腕の動きに針がついていけない。 新人看護師が押さえた腕からなんとか血管を捜し出した西脇は、注射針を刺した。

途端目の前が深紅に染まっていた。噴水みたいに顔から大量喀血だ。

「どうしたんだ。採血は終わったのか。動脈を刺してしまったのか」

「そうじゃないです。ととりあえず、この血液、検査まわしてきます」

さすがの西脇も声が震えていた。

黒川は早く先輩が来てくれと祈るばかりだった。さっぱりわけがわからない。いったい何なんだ。これは。



千景は水道の栓を閉めた。鏡を見なおした。もちろん最初から血は付いていない。ただ患者の吐いた飛沫。ひょっとしたら襟や見えないところに残っているのかもしれない。だとしたら嫌だ。水と石けんだけではまだ心もとない。液体は皮膚から落ちても、ぬるぬるした本体は皮膚の奥深くに入り込んでしまって洗っても落ちない。そんな気がしてしまう。

消毒液が欲しいな。確か向こうは検査室。わけを話せば使わせてもらえるだろう。のろのろと歩き出した。もう遅刻はしかたない。この気分を払拭しないと事務に行く気になれない。病院の地下に検査室はある。薄暗くかび臭い。階段を上ればフロアは朝のラッシュ。大して悪くもない老人や子供が遊び気分でうろうろしているだろう。

そう。いつもの月曜の朝だったはず。浩二と過ごした晩を思い出しつつ仕事に向かうことができたはず。それなのに何かが狂ってしまった。このまま一週間休んじゃいたい。

その時後ろから走ってくる影。

千景は振り返った。

看護師、西脇美恵だ。試験管を抱えて走ってくる。すごい勢いだ。

「どうしたの、ちゃんと洗ったの」

言いながら脇を駆け抜ける。千景はうなずいた。

「水で洗ったけど、やっぱり消毒液借りようと思って、検査室に」

西脇は速度をゆるめた。

「それはそうだわね。あたしも借りよっかな。きっとあたしも血ぃ浴びてるわ」

千景は見た。暗くてよくわからないけれど確かに西脇の白衣に点々と深紅。

「それ、あの患者さんの血なの」

「うん。もちろんだわよ。他に誰の血をあたしが運ばなきゃならんの」

「いったいどういう患者さんなの。何の病気であんな」

「それはあたしが知りたい。ともかくひどい肺なんだわ。患者意識もないのに脊髄反射みたいに咳だけしてる」

「何それ。気持ち悪い」

「全然検討もつかないわ。黒川先生大慌てしてる。ま、あたしもだけど。とにかくみんながこの患者さんにかかりきりになっとる」

「それじゃ全然他の患者が回っていかないよね」

「うん。でも朝でまだ良かった。もし夜救急車であの患者さんに来られていたら呼び出しがかかっとったわ」

あ、そういう見方もあるのか。

千景は西脇の手の中の試験管を見た。ゆらゆらと中で赤い液体が揺れている。


顔がひりついている。結構利くな。あの消毒薬。顔に使うんじゃなかったか。でもこれくらいしないと落ちたという気がしない。気分だけはさっぱりした。今度は化粧水が欲しいなぁ。なんてぜいたくだね。

 早退しちゃおうかな。気分が悪いとかいって。タイム・カードだけ押して仕事してない。千景は最初からいない人間なんだ。このまま帰っちゃおうか。

前から二人の人間、走ってくる。

「何だ、あれは」

「わかりません。とにかくレントゲンの用意を」

廊下を二人の医師が走り抜けていった。片方は研修医の黒川先生だ。西脇がさっき慌てているといっていたけれど千景にとってもはや他人事。大変だね。

 でも急に好奇心が沸き上がってきた。いったい何が原因なんだろう。やっぱり後でこっそり聞きに行こう。こんな目にあったもの。知る権利くらいはある。すると今日は病院にいなくちゃならない。いいか。形だけでも仕事をしよう。



 二階、庶務課。ここに勤めて二年になる大島好子とは電話を受けた。

『ファックスはまだですか』

せっついた声。若い研修医だ。黒川。完全に動転して声が裏返っている。

『川島病院には、再度連絡はしてくれたんですか』

川島病院。電話の焦点はそこだ。

今救急に何かわけのわからないすごい症状の患者が入ってきているという。もちろん本人は言葉もしゃべれない。けれど金曜日つまり三日前にその患者を診察した病院があるという。すぐ近くに。それが川島病院だ。

川島病院は典型的な田舎の老人病院。病床僅か三十床ほどの『有床診療所』だけれど、一応市の東半分の軽い患者を集めてそれなりにやっている。

さっそく救急外来は川島病院に電話をとばした。向こうは素っ気ない返事をよこしたのだ。

『ただ今月曜の朝で、各部所非常に混雑しておりますので、医師が電話口に出ることができません。その患者の情報についてはファックスで返事を送ります』

わかっていても腹が立つ。月曜の朝病院が大混雑するのはどこも同じだ。こちらが今大変な思いをしていることがわからないのか。ともかく今のままでは、何一つわからない。

その思いは現場を見ていない庶務課にも伝わってくる。電話を聞いているだけの女の子たちにも緊張が伝わっている。人から人へ。この地方都市の病院はたった一人の患者のために、全体が張りつめている。

 瞬間

鈍い、軽い音。

間違いない、ファックスだ。いつもは全く気にもとめないかすかな音。地方の病院とは言え送られてくる紙片の量は日々膨大だ。ほとんど会議だの事務連絡だの全く緊張感も何もない。けれど今は、紙の動き一ミリ一ミリまで重い空気をかき乱しているようだ。

大島好子は飛びはねるように立ち上がっていた。待ち切れないように引き抜いた。

『疑い病名:結核』



岸本千景が仕事場に上がっていった時、目に見えた光景はまるでお祭りだった。他に表現のしようがない。

係長が電話にかじりついている。片手で電話をもちながら片手で指示を飛ばしている。まるで指揮棒を振るみたいな動き。他のみんなが走っている。

 特に大島好子なんか、踊るみたいな動き。

朝のリズムに乗り遅れた千景は、しばらくついていけなかった。みんな何を騒いでいるんだ。下の救急ならひどい患者が来ている。でも二階の庶務課には関係ないはず。

 いったい何なんだ。いつもならこんなことはない。みんな仏頂面で金を数えている。書類をくっている。判を押している。遅刻していったら、みんな一斉に一瞥をくれる。

それなのに今日は、みんな首を振って、喋りあっている。誰も千景に関心はない。

「保健所に連絡は」「症状はあるんですか」「だめだ、まだしゃべれない」

何の話でそんなに盛り上がっているんだろう。よくわからない。まぁいい。このまま席に着いてしまおう。歩いていった。

大島好子が振り返った。

「あれ、千景ちゃん、来てたの」

ここで黙った。そして正直にいった。

「今、来たの」

「ま、いいわ。ちょうど良かった。これを下の救急まではこんでくれないかしら」

紙を渡された。

「いいけど、何なの。この騒ぎ」

「今来たばかりだから知らないのね。その紙読めばわかるわ」

「疑い病名、結核。患者氏名、尾上四郎。これって」

「今、下の救急に運ばれてきた患者」

千景は自分がさっと青ざめたのがわかった。


ファックスを持って降りていくと、西脇美恵にせっつかれた。

「電話で聞いたけど、結核の疑いってどういうことなの」

千景は青い顔のままもってきたファックスを渡す。

『患者尾上四郎は三十九歳。保険証のコピー添付。この度は中国に短い観光旅行に行ってきた帰りだという。金曜日朝から咳が続き、発熱、頭痛を訴えて来院。当院では痰のサンプルを取り、抗生物質を処方して帰宅させる。精密な検査結果が出るまで自宅を出ないように伝えると共に、保健所に連絡するものとする』

「これほんとうにあの患者なの」

それこそ千景が聞きたいことだった。

「救急隊にもう一度問い合わせた方がいいかしら」

「そうして。だって症状が違い過ぎるじゃない」

結核でこんな血まみれの喀血だらけになるなんて明治時代か。

医師の黒川が現れた。読んだばかりのファックスを振り回すみたいにしている。

「いっぺん川島病院の先生と電話つながらないか。金曜日、つまり二日前に患者は元気そうだったかとか、検査結果とか、ファックスでわからないこと聞きたいから」

「はい、わかりました」

千景は背を向けてまた庶務課へ向かった。絶対違う患者だ。川島病院の人は何かかん違いをしているんだ。でなければ。

患者の飛沫を浴びた千景にも、感染症の疑いがかかってくるのだ。



診察室。ベテラン医師の森田が振り返ると黒川が診察室にもどってきていた。けれど患者はすでに黒川の手を離れていた。研修医にできることは補液を点滴するくらい。こんな診断のつかない患者の診察など最初からできはしない。それはわかっていた。

患者はまだ細かく振動するみたいに動いていた。診察台は血の色で塗られていた。

「森田先生、心音が」

看護師が叫んでいる。言われるまでもなかった。ECGモニタが悲鳴を上げていた。診断のつかない患者は、原因不明のまま最終局面を迎えようとしていた。

内科医の森田はこの病院に勤めて五年目になる。最初思わず、結核専門病院にまわせよと言うところだった。けれど今はそれをしなくてよかったと思っていた。

 肺の写真が来た。予想通り。真っ白だ。それに水でいっぱい。呼吸すらもできまい。ひどい言い方だが患者は心臓だけが動いている肺炎の袋だ。もちろん心臓はもうもたない。

森田はゆっくり黒川を見た。

「このファックス。おかしくはないか」

「え」

「いいか、こうだぞ。『抗生物質を処方し、本人に注意して帰宅させる』だぞ。二日前にはこの患者が、自分で病院に来て、歩いて家に帰ることができたんだ。信じられるか」

黒川は何も答えなかった。ただ何か待っていたようだったがすぐにそれは電話だとわかった。外線で少し話していたが戻ってきた。

「川島病院が検査していました。結核はマイナス。肺炎球菌やサイトメガロなど今検査に回しているそうですがマイナスらしいです」

 言われるまでもなかった。この患者は結核ではない。もし結核にかかっていたとしてもそれは現在肺から出血している一部分に症状が現れているだけだ。全身が咳の反射反応になって血液が噴出する結核なんて、聞いたこともない。

 川島病院で調べたのは日本でよく見られるタイプの肺炎だ。森田は見た目で否定した。ただそれをさっ引いても肺炎を引き起こす感染や疾病はあまりにも多すぎる。抗生物質が効かないのならウィルス性か。まさか。

「この患者は、中国に行ってたんだな。症状に合うかもしれない病名がある。本で読んだだけなのでこれがそうとはいえないが」

 森田は黙った。実は口を開きかけて、何度もとまっている。とっくに頭の中にあることだ。ファックスを見た瞬間から。けれど口にすることはできない。余りに恐ろしくて。

「サンプルを、国立感染症研究所に飛ばす」


 2.宴の始末





『急性重症内臓症候群』別名SIIRS


 感染症研究所が判定を下した。しかしそれには数日かかった。今までにない全く新しい疾患という。だから反応は遅れた。

 月曜日に始まった混乱は週の半ばまでもつれ込んでいた。

 ただしそれからはあっという間に事態は動いた。千景の家に強力な防毒服をまとった男たちが現れた。そのころには千景には微熱が現れ始めていた。


二週間後。

岸本千景は眠気をこらえていた。確かに一時はお祭りをやっていた。でもそれも沈静した。というより外野が騒いでいるだけで彼女は寝ているしかないのだ。食べて寝るくり返し。どうしようもない。

 千景は病院に監禁されていた。自分ではそう思っている。千景だけでなく、医師から始まって看護師患者。尾上四郎と接触した疑いのある人間の大半が強制的に収容された。もちろん川島病院の医師たちもつれてこられた。発熱したかその可能性のある人間たちだ。

 部屋に閉じこめられているわけではない。病院の2フロアが全て収容患者に当てられ、外に出ることを禁止されたのだ。

 千景は体温計を見た。三十七度。他の人間と違い千景は基礎体温が低いのかこれ以上上がることはない。感染していることは同じだが。


 テレビや新聞が一斉に騒いだ。すでに川島病院や市民病院を起点とするように患者は広がっていた。

 千景が収容されたのは自分の職場、市民病院だ。抵抗はなくてそれは助かった。厚生労働省は千景の病院をSIIRS封じ込めの地域拠点にすることとした。

 何しろ職員のほとんどはそのまま収容されてしまったのだ。

 それこそ鍵のかかる部屋にでも閉じこめられてしまうんではないかと思ったが普通の病室だった。当然だ。ここにいる人間全員が感染している。後は重症度の違いだけだ。千景は熱が耐えられる間は移動も院内行動もかなり自由だった。

 代わりに病院の外にはいくつものバリケードが建設され、一般人が入り込めないようになっている。テレビで見るとまるでここが恐ろしいところのような気がするが中にいるものにとってはこれが日常だ。退屈でただ時間が過ぎ去るのを待つだけの。

 千景にはあまり理解できない話だったが森田医師の説明によればSIIRSはウイルス感染症だ。SIIRSウィルスという新種のコロナウィルスが身体にはいることによって起きる。太陽のコロナのように球体にまんべんなく飛び出している極小の突起から連想された名前だ。飛沫感染といって千景の場合は患者に咳をかけられたのがそれだ。

 そう。森田医師も西脇美恵も感染し、院内にいる。入院しながら他の患者も診ているという妙な関係にある。けれど外から完全防備をして通ってくる医師たちにはなかなか閉じこめられているものの気持ちがわからないので千景たちはつい森田医師に診察を要求してしまう。ただ最近は森田医師も熱が上がりつらそうだ。

 まして最初に患者と接触し、二日ほど前から陰圧病室に入っている研修医の黒川はもはやしゃべることもできないと言った。咳の連続脊髄反射というやつが連鎖してきているという。血反吐を吐きつつ意識もないのにただ呼吸の苦しみだけが続くなんて。

 自分もああなってしまうのか。冗談ではない。どうしても想像は悪い方へといってしまう。一人では。昼の誰もいない時間は毎日耐えられない。

 まだ浩二と電話が繋がる時間ではない。浩二とは毎日電話で話す。仕事が終わった後向こうからかけてくることもあるし、耐えきれずこっちがかけることも多い。不幸中の幸いは、浩二が救急車とは接していないことだ。あれ以来会ってもいない。

 もちろん無事だといっている。ただ麻木市にはすでに感染が広がり、いつどこでウィルス感染するかわからないとも言っている。怖いのでテレビはニュースを極力見ないようにしているがそれでも情報は伝わる。累計感染者は日本だけで五百人近くに達したという。

 毛布をかぶっていつものようにふるえているしかないと思っているとノックの音。

 森田医師がやってきた。点滴ルートを腕に刺している。これでなんとか咳を押さえ込んでいるらしい。しかし見た目からも明らかに発熱している。マスクをして白衣だ。

 千景も礼儀上マスクをした。きっと病室いっぱいシールズウィルスが漂っているから意味はないが。森田医師はさすがにつらそうに前に座った。思わず聞く。

「大丈夫ですか」

「今日は診察じゃなくて挨拶に来た。病人が病人を診るなんてやっぱりおかしいからね。午後から僕も隔離だ。黒川くんが死んじゃったからね、代わりにあの部屋に僕が入ることになった」

 黒川医師。医者になったばかりだというのに。最後はやはり肺が真っ白になって死んだのだろうか。聞きたくもない。

「西脇さんは今どうなのですか」

「僕とそう変わらないし、なかなか動けない。ただ治りかけてる人も多いからそう心配しないでいいと思う。特に君とか大島さんはウィルスにほとんどさらされなかったから熱もそう上がらないし」

 大島好子。やはり感染した。患者とも接触せず二階の庶務課からでなかった。どこで感染したかわからないという。本人は千景に移されたと思いこんでいるという。見舞いが来るたびに千景の事を「許せない」と泣きながらなじるという。治るまで会わない方がいいよ、と言われた。実際会っていない。

 森田医師はまた同じ話をした。患者を診るたびに安心させるためにしている話だろう。彼はいつも他の患者にこう言っているという。

「SIIRSの致死率は決して高くない。治っている人もいる」

 けれどそれは全世界各地で猛威をふるっている新興感染症が人類にとって存亡に関わるほどの脅威であるのに比しての話だ。

 たとえばエボラ出血熱。フィロウィルスによって引き起こされるこの疾病はなんと患者の七割から九割が死に至る。同様なフィロウィルス疾病であるマールブルグ熱もまたしかりで、ウィルスは特定したが人類はこれに対抗する手段を持っていない。

 あまりに凶暴なエボラに比すればその影は薄いが1998年末に突然マレーシアに出現したニパウィルスも恐るべき致死率だ。二百五十人以上が感染し百人以上が死亡。致死率にすれば五割に至る。この時はマレーシア政府の徹底したウィルス封じ込め作戦が功を奏し、感染爆発は食い止められた。ニパウィルスは豚を介して人間に感染するが政府は、マレーシア国内の豚の半分を軍隊を繰り出し処分したのだ。

 逆に言えばこれくらいの苛烈な処断を行わなければ常に進化し続ける人類の敵、ウィルスを封じ込めることは不可能だということにもなる。

 実際2003年のSARS感染爆発の時、事態を隠蔽した中国と情報を公開し徹底した隔離政策を行ったベトナムとでは完全に明暗が分かれた。中国初のSARSは全世界に感染を広げたがベトナムでは封じ込めに成功したからだ。

「絶対にしてはならないことは、隠蔽することだ」

 たとえばエボラ出血熱。現在人類にとって最大の脅威であるこの病原体の発生が疑われる場合は、間髪を入れずにWHOに通報するシステムが確立された。

 他に方法がない。アフリカ中部の貧困地域に往々に発生するこの感染症に対しては他国の援助の手がなければ本当に何もできないのだ。現地の医療は不備で薬剤も機器もほとんどない。医者さえもいない。ところがそれが逆説的にいつでもエボラのアウトブレイクを制することに今までは作用してきた。

 エボラは現在まで1976年、1989年、1995年、2000年、2018年と間欠的に人類に対して襲撃をかけている。二回目の時にはアメリカ本土に上陸した。それでも国際協力と情報公開によって感染の押さえ込みに成功している。

 しかし2003年SARSは全く逆だった。

「中国は隠蔽していた。そして今回も」

 今回の新しいウィルスSIIRSウイルスがどこから出現したのかはまだエボラ同様謎のままだ。前回のSARSの時はハクビシンが疑わしいと言われたが確定ではない。つまりいつ再び集団発生してもおかしくはないはずだった。実際エボラウィルスは数年の周期を置いて姿を見せている。SARSもそろそろ警戒していてしかるべきだった。だが現れたのはそれに輪をかけて悪性の新しいウィルス。

 鳥インフルエンザとは違うのだ。

 鳥インフルエンザとは人間や豚と頻繁に遺伝子をやりとりし合っているインフルエンザウィルスであり、正体も明確ならば薬物も開発されていないわけではない。リン酸オセルタミビル。体内でウィルスの増殖を抑制する薬物であり決定打ではないが、細胞内に壁を造りしばらく時間をしのいで身体の回復を待つという意味では劇的な効果がある。

 しかし正体不明のSIIRSウィルスに対し人類は現在医学的に無力だ。出現したら対策は一つしかなかった。徹底的な隔離と対症療法。

 エボラ出血熱が発生した場合、対策は道路を封鎖し村全体を封じ込め人間が移動しないようにする。細胞内ではなく人間同士の間にしか壁を作ることはできない。SARSも同じ。今回も感染した人間を明らかにし交流を停止するしか押さえ込む手段はないのだ。

「それなのに中国は」

 あの患者が日本に突然出現し、こんなに外国で感染が広がるまでSIIRSの発生を報告しなかった。日本でウィルスが発見されてもまだ数日も国内で感染が起きていることすら認めようとしなかった。隠蔽し、情報が広がる前に自国内で感染を押さえ込もうとしていたのだ。

 さらに。

 日本政府も国民もあまりに警戒がなさすぎだ。SARSが突然人類に襲いかかったのが2003年、この時の恐怖とパニックは、日本についに感染者が出現しなかったことによっていとも簡単に忘れ去られた。原因が不明である以上中国に足を踏み入れるもの、いつ何時どんな新しいウィルスに感染するかわからない。死を覚悟して中国旅行に行くべきなのだ。

 隠蔽と無警戒。最悪だ。それが結果としてこんなにも犠牲者を発生させてしまった。

 千景は聞いた。

「あたしたちは、治るんですか」

「治るよ。心配はいらない。類似のコロナウィルス性のSARSは九割は治る。あの時も根気よく治療して多くの人が回復しただろう。SIIRSは前回のサーズにウィルスも似ている。君は若いし抵抗力もある。現に熱も他の人に比べて全然低い。最初に回復するかも知れない」

 その時、またノックの音がした。白衣に酸素マスク。ビニール帽という宇宙飛行士のような男たちが現れた。私を迎えに来たようだ、と森田医師は言った。立ち上がる次いでのように千景を振り返った。

「西脇さんが会いたがっている。ただ本人は酸素マスクをしているからしゃべれない」

 


 少し寝て身体が楽になってから西脇美恵に会いに行ったが手遅れだった。

 すでに意識はもうろうとしているのだろうが身体が勝手に咳を続けている。脊髄反射で肺の異物をはき出そうとしているがすでに血痰くらいしか吐くものがない。対症療法により筋肉の不随意運動が薬物により押さえ込まれているので最初に見た患者ほどは苦しそうではないが増殖するウィルスに対してもうなすすべもないのだけはわかった。

 千景は硬直したまま西脇を見続けた。逃げ出すこともできなかった。するといきなり扉が開いて大島好子が現れた。マスクをしているが咳をして彼女も苦しそうだった。熱も上がっているのか目がうつろだ。

 西脇の状態を見るなり叫びだした。

「なんなの、これは」

 近くにいる完全防備の医師たちが大島を押さえ込んだがそれでもかまわず彼女は叫び続けた。千景を指し続けている。

「あたしが何をしたって言うのよ。何でこんな目に遭うのよ。あなたよ、あなたが感染(うつ)したのよ。お前なんて、さっさと」

 大島好子は連れ出された。

 千景もそのまま部屋に戻ったがその後しばらくして西脇美恵が死んだと伝えられた。交替であの部屋には大島好子が入るという。


 千景は相変わらず微熱がずっと続く。ただそれ以上は上がらない。

 でも言いつ自分も西脇のようになるか。ある朝起きたらいきなり肺の映像が白くなっているか。毎日毎日が拷問台だ。精神的な。

「耐えられないよ」

 浩二に電話した。

『大丈夫だよ。医者が助かるって言ったんだろう』

「言った。でもみんな死んでる」

 今回のSIIRSは致死率が上がっているとニュースでも言っている。ただそれは日本国内だけらしい。発生地の中国では死亡率感染ともにそろそろ下火になっていると浩二は言った。

「なんだこの病院でだけこんなに死ぬのよ」

『遺伝子の変化。進化論で習っただろ』

 人類は発生以来ほとんど遺伝子を変えていない。その時は人類そのものが消える時だ。チンパンジーからネアンデルタール。原人類までほとんど遺伝上変化がないにもかかわらずわずかの違いが劇的に人類を変えてしまった。そして変化には何百万年もかかった。

 しかしウィルスは。

 感染して一時間、もうDNAが変化する。エイズウィルスなど体内の細胞ごとに遺伝子構造を変えている。人類の硬直した免疫抗体システムなどウィルスの前では壁ほどの意味もない。ウィルスは常に進化し続け、感染した先で生物地図を塗り替える。

『当然のことだけれど2003年のSARSウィルスと今回のSIIRSはウイルスが違う。でも味方によっては遺伝子構造が変わった同じコロナウィルスという説もあるんだ。一度感染を経験してる中国人にとってはもしかしたらこれは大した変化ではないかも知れない。免疫もできているだろう、ということだ。けれど日本人にとっては』

 初被曝だ。免疫も抵抗力もない。致死率は高くなる。

 千景は咳をした。思わず手で押さえてみた。血は出ていない。でも涙が出てきた。

「どうしよう、このまま会えずに死んじゃったら」

『そんなことはないよ。しっかりしろ。必ず治るさ。ウィルスもバカじゃない』

「なにそれ」

 浩二は言った。あまりにも凶暴で感染した人間まで殺してしまってはウィルスは増えられない。ウィルスが広がってさらに進化するためには感染者との『共存』が必要だ。

『つまり、感染するたびに弱くなっている』

 害を為さなくなる。香港型インフルエンザもかつては人類の四分の一を殺すほどに凶暴なウィルスだったが現在では軽いものは数日熱が出るだけだ。

 現に中国で今それが起きている。SIIRSウィルスが弱毒化している。感染爆発は収まってきている。日本も麻木市だけに封じ込められた。間もなくSIIRSアウトブレイクは終焉するだろう。

 千景は泣きながら言った。

「あたし、治るよね。いつか。それまで待っててくれるよね」

『もちろんさ』

 日常の何気ない朝。

 彼と一緒に迎える朝。

 それがこんなに貴重な物だったなんて。


 数日後、森田医師が死んだ。さらに数日後、大島好子も死んだ。



 麻木市のSIIRSは終焉した。

 感染者五百十九人。死者二百六十一人。今回は特に凶悪な遺伝子変化をきたしたウィルスが上陸した。

 それでも治癒したものたちは日常に戻った。

 ただ麻木市民病院は閉鎖された。職員が多く死亡してしまったと言うこともあったがSIIRS収容病院という風評の方が大きかった。患者が訪れなくなった病院は閉めるしかない。

 千景は職を失った。

 そればかりではなかった。

 元々千景の感染は他人とは違っていた。微熱が続くがそれ以上には至らず、肺にもあまり水がたまることはなかった。そういう状態が初めからずっと続いていた。

 おまけに熱が引いてからも時々思い出したように咳が出るという症状が止まらなかった。痰を分析した結果恐ろしいことが判明した。

「あなたはSIIRSを保菌しています」

 身体に異常を来すこともない弱毒化したシールズウィルスが身体に住み着いたと言われた。

 コロナウィルスはまた進化したのだ。人間の身体に適応し、安住し始めた。そして思い出したように排菌する。

 電話ではあれほど待っていると言った浩二もこれを聞いて青くなり、逃げ出した。

「おれまだ死にたくないよ」

 千景の周りの壁は撤去されない。

 次の新しいウィルスのアウトブレイクが起きるまで。

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日常の朝 ヘンリー大原 @henry1m

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