霹靂(一)
四月は新生活の始まり、出会いと別れの季節である、というのは、もはや何度も使い回された常套句だろう。
青空の下、可憐に咲く桜の花々をバックに、わざとらしい笑顔を向ける少年少女のイメージが、広告に多用される時期。新生活の象徴でありお供、それが桜の花だ。
しかしまだ、桜は咲いていない。外の世界ではとっくに花開く頃だろうが、数週間前まで冬だったこの町では、咲くには早すぎるのだ。寒の戻りに見舞われる恐れもある。
だから自分は、いや、この町のほとんどの人は、満開の桜の下で入学記念の写真など撮ったことがない。撮れたとしても、大抵はちんまりとしたスカスカの桜の下で、作り笑いをしているだけだ。
自分自身、四月の桜というものを意識したことがない。あの花がなくても、この町の人々は四月になれば必然的に進学するし、入社もする。あんなものがなくても、新生活は平等にやって来る。今はそのことが、身に染みて理解出来た。
そう、新生活。自分はついこの間まで思いもしなかった、新生活という名の門をくぐろうとしているのだ。
お父さん、私、豆の木に登ろうとしている気がします。
深く息を吸い込み、自分が生きていると確かめるように吐き出す。あと数年で大人になるのだ。これくらいの門をくぐれなくてどうする。九割を不安が占める心に鞭を入れ、天空は踏み出した。
ドアの前に到達し、荷物を置いてインターホンを押す。
「あのー、今日からここに住む東濃ですが。
しかし、中から返事はない。まだ昼前だが、もしかして出掛けているのだろうか。門の外で待っていようかと、天空は方向転換した。すると、どこかから柔らかい声が届く。
「はーい、こっちです」
反射的に右側を向くと、庭先の窓から、割烹着に身を包んだ物腰柔らかそうな若い女性が顔を出していた。手招きをする彼女に従い、天空は窓の側に近づいた。
女性は傍に寄ってきた天空を見るなり、にっこりと笑った。飾り気のない雑草だけの庭に、本当の春が訪れたようになる。
「
笑顔の光に圧倒されて、天空は声も出せずに頷いた。微笑み一つで誰でも包み込めそうだった。魔法使い、というのがこの寮母の第一印象だった。
「私が寮母の阿窟
「玄関からじゃなくていいんですか?」
我に返った天空は阿窟に訊ねた。父親はたしか、アパートではなく寮と言っていたはずだ。
「玄関はねぇ、この間の寒の戻りで大雪が降ったじゃない。そのせいで屋根が抜けちゃって、落ちた板もほったらかしなの。他にも色んなとこが壊れちゃって、只今絶賛修理中よ」
説明しながら、阿窟は屋内に入っていく。靴を脱がずに上がったので、天空もそれに倣った。
……雪で屋根が抜けるって、この建物大丈夫か?
不安を募らせながら、
「……失礼しまーす」
と、何となく身を低くして、踏み入った。恐る恐る中を見ると、想像よりもゆったりしていて、なんだか肩の力が抜けた。
「うわあ、随分大きいですね」
二つの大きなソファと柔らかそうな椅子が、背の低いテーブルを囲んでいる。その奥の大きな窓から差し込む、東からの光が部屋に舞う埃を煌めかせている。広さはかなりあり、オーケストラ一つが入ってやっと苦しくなるかというほどだ。天井は吹き抜けで、二階の廊下から見下ろせる形だ。
「そうでしょう? 自分で言うのもあれだけど、うちは由緒ある家系でね、財力もそれなりにあったらしいの。没落した今となっては、見る影もないけれど」
寮というのはもっと厳かで、閉鎖的だと思っていた。例えるなら、兵隊の宿舎。ところがここは、シェアハウスと見間違えそうなほど明るい。
「あれ、誰もいませんけど、住人は部屋にいるんですか?」
「平日は七人の内、四人が仕事に出ているわ。残り三人は裏庭で作業しているわ」
作業? 館は修理中と阿窟は言っていたが、そのことだろうか。いや、住人が修理するわけがないか。
「女の子にはちょっときついと思うけど、とりあえず部屋に荷物を置いて、皆を手伝ってくれない? あなたの部屋は三号室よ」
具体的なことを何も教えず、阿窟はポケットから取り出した鍵を渡す。
「ああ、汗拭きタオルも持って来てね」
そう言って、阿窟はどこかへ去っていった。
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